「16人のプリンシパルtrois」を観てきた

16人のプリンシパルtrois

6/10に、友人と乃木坂46が行う舞台を見に行った。その名も「16人のプリンシパルtrois」という。ひどかった。

期待していなかったといえば嘘になるのだろう。僕は同じCDを何十枚と買いまくりライブには出来るだけ向かうような紛れもない乃木坂46シンパである。しかしそれより何より、去年行われた「16人のプリンシパルdeux」が『ガールズルール』以降のすべての楽曲リリースに対する不満を差し引いても余りある、豊かで感動的な体験だったからだ。そしてそれは「16人のプリンシパルdeux」が決して演技のプロフェッショナルではない、未だ途上であるアイドルという存在が演劇をするにあたっての弱みを美しい魅力として変換することに成功していたからだと思う。

deuxにおける第一幕のオーディションは「小劇団の劇団員とそれを見守るプロの演出家」という設定があった。それは舞台の上で実際に苦闘するアイドルの姿と重なることで、重層的な面白さを生み出していたと思う。舞台の上で提示されたお題をやってのけようとする"劇団員"たちの真摯な試行錯誤の過程はそれだけ取ってみれば稚拙だったり、何をやっているのかすらわからず、エンターテイメントとしては成立していなかったのかもしれない。しかしながら彼女たちは単なる劇団員ではなく、アイドルなのだ。アイドルが戸惑いながらも挑戦していく姿はそれだけでとても美しいし、またそのただただひたむきな態度にも強く胸を打たれた。

何故オーディションというあくまでも「過程」を舞台としてそれが感動を生むのかという理由、それをdeuxは見事に証明していた。それは彼女たちが紛れもない「アイドルだから」なのだ。演技は稚拙かもしれない、しかしそれでも、それだからこそ観客に得体の知れない感動を与える存在、それこそがアイドルだ、と言わんばかりの強烈な説得力をもって我々に迫ってくるものそれがdeuxの第一幕だった。

第二幕はアイドルである彼女たちが役者として演劇を演じることになる。驚いたのはそこでの彼女たちがきわめて堂々としていて、第一幕での稚拙さをまったく見せていなかったことだ。恐らく何度も脚本を読み込み、入念に練習を重ねてきたのだろう。それは彼女たちが第一幕では「あえて」持たざる者を演じていたのかもしれないという錯覚すら感じさせる。

そして舞台装置を利用しながら左右奥底を縦横無尽に動き回る演者たちの痛快な動きそのものと舞台に投射される創意に満ちた映像、それに乃木坂46の楽曲が有機的に組み合わされることにより、(例えば僕が普段親しんでいる映画などではなく)舞台でなければ創出し得ない何らかというものに触れた感触があった。初めて観た時の高まり、顔が赤くなって鳥肌が立ちまくりそれでも舞台のどこから目を離すことも出来ないあの高揚感は今も忘れられない。

 

さて、結論から言うと今回の「16人のプリンシパルtrois」はそうした去年の舞台に対する我々の信頼をぶち壊す最低のものだった。それだけではなく「アイドルがやってアイドルオタクが見に来るものだったらこんなもんでしょ」などという観客や舞台ひいてはこの世の文化すべてを冒涜するナメた作りであり、その代わりに福田雄一の脚本/演出家としてのただただ肥大化した自尊心だけを後生大事に抱え持つ痛々しさと謙虚さというものをあまりに欠いた傲慢と怠惰だけが目につく、それは文化というにはあまりに貧しい代物だった。

第一幕

これは昨年と同じく公開オーディションだ。クジを引いてコントを選択し、それを競合者と一緒に台本片手に演じる。

大きな問題として、ここで重視されているのが基本的に"与えられた台本をどう読むか"という視点に限られてしまっているということが挙げられる。当然ながら笑いを生み出すというのにも様々な手法があって、それは例えば脚本の妙であったり、その仕草や身体を使った表現をもって笑わせることもある。表情や視線により違和感を少しずつ出していくコメディもあるだろう。その中で福田雄一はその脚本に書いてあること自体の面白さと会話のやりとりだけで笑わせようとすることを目指しているようだ。基本的に動きや舞台の空間を使った演出も、表情や視線からアプローチしていくような演出も観ることが出来なかった。また、演者たちは台本片手に演じるわけでボディ・ランゲージ的な表現もかなり抑制されていたように見えた。だからここでは脚本がどうか、脚本がどう読まれるかという部分だけで笑いを生み出さなければならない。ただしこの演劇の構造上、同じ脚本を何回も利用するという場面は一日のうちでも何回も見られたし、なおかつこの興行の性質上複数回観ることになる観客も多いわけで、実質的に脚本に書いてある面白さはかなりの部分脱臼してしまっていると言わざるを得ない(というか脚本におけるそもそも笑いを生み出すメソッドとして基本的に舞台を活かしていない荒唐無稽なボケ→大声でツッコミという手法が多用されそれがほぼ全てという脚本の出来、コメディセンスにはきわめて落胆させられたがこれは好みの問題だろうから捨て置く)。だから、自然と脚本がどう読まれるかという点にのみフォーカスされることになる。

しかし動きや台詞が抑制されてしまった結果、アイドルが演劇するにあたって発揮されるべき自らの独創性というのは極めて限られたものになってしまっていた。具体的には声色や物真似だ。ただし、残念ながらそれは必然性のないボケが繰り返される脚本と相まってまったく焦点を欠いた単なる見世物になってしまっていた。

今回の脚本は致命的な欠陥を有していて、それは登場人物が"普通の会話をしている中でその場面から連想される形でボケを入れ込む"のではなく、"ボケを繋げることによって会話の体を為そうとしている"ことに起因する。これは端から見れば単なる狂人しかいないように見えてしまうのだ。そんな中でボケとツッコミというメソッドを繰り返す姿は分裂的としか言い様がない。この一貫性のなさをどうにかカバーしようとアイドルたちは過剰な声色を用いたりあるいは物真似をすることによって何らかの主体を確立しようとするのだが、これははっきり言って異常者勢揃い大会のようだった。去年あれほど真摯でひたむきで、美しかった彼女たちがあたかもその異常性を競い合うような姿は無残としか言いようがなく、どうしようもなく悲しかった。心の底から悲しかった。福田雄一を許してはいけないと思う。いや、メンバーは悪くない。悪いのは福田雄一とそれがこの世の中でのさばるのを許してきた我々すべての観客なのだから。

 

そんなあたかも動物園のような惨状を呈していた舞台の中で唯一、キャラ演技をしながら一発ギャグに留まることのない全体を見通したユーモアというものを考えていたのは2期生の新内眞衣さんだったと思う。

「タクシー」というお題では、運転手とその乗客の2人による密室劇的な舞台が用意される。その閉じられた場面の性質上基本的に座っている2人が動くことはないため、まさに会話それ自体の面白さや"間"というものに大きく左右される題目だった。運転手を演じる齋藤飛鳥さんと新内眞衣さんの2人で行われた。

齋藤飛鳥さんは基本的に物真似(芦田愛菜という人の物真似らしいです)を繰り返し、もちろんそのおかしさというものはあるのだろうけれど、台詞を言う前におどけた話し方でフレーズをかます、というまあそれだけで、一発ギャグを引き伸ばしたその冗長さから逃れることが出来ていなかった。これは齋藤飛鳥さんだけが陥っていたのではなく、第二幕で「物真似」でキャラ設定を行ったほとんどがこの冗長さと共にいたと思う。

それに対して新内眞衣さんが面白いのは「飲み会帰りで気分の悪い乗客」という少なくとも一発ギャグ的な笑いではなく、その後の様々なやり取りに対してもこのキャラをベースに笑いを展開していくことが可能な設定を自分に課していた点にある。同時にOLである新内眞衣さんがアイドルとしての自分自身の"キャラ"を活かした設定でもあるわけで、そこが秀逸だ。最後のオチ(クソつまらないから言ってしまうが、目的地が新宿であるのに新橋に着いてしまうというもの)に対して、新内眞衣さんは「しょうがない、飲みに行こう!」とこの設定ならではの返しをし、それで舞台を締める。これはとても知的で、ああ彼女はこれを見据えてこのキャラを演じていたのかという納得感がある。そして脚本上の弱点であるあまりに必然性の無い荒唐無稽さをカバーすることにも成功している。大袈裟な一発だけのキャラを背負わず台本を少しずつ自分の作ったキャラに馴染ませていくというその姿勢は見事だったと言いたい。クイーンオブコント、というその日のうちのMVPを選出する枠があるのだが、それは迷うこと無く新内眞衣さんに投票させてもらった。

西野七瀬さんもなかなか良かった。彼女が挑戦していたのは4人組で「結婚を控えている女性とそれを祝福するメッセージを言う職場の同僚3人」というコント。このコントは会社の同僚たちによるメッセージが読まれるというシーンであり、最初は普通のものなのだが次第に内容が「冷蔵庫の中で牛乳を放置しっぱなし」だとか終いには「会社の金を横領した」という不穏なものになっていき、しかしながら祝福するムードは変わらないというそうしたおかしさを目指すものだった。ここで西野七瀬さんは結婚を控えている女性を演じていたのだが、台本の都合上、彼女は次々と暴かれるその恐ろしい側面について「いや~」「それは言わへん約束でしょ~」などと返すにすぎず、何か面白い発言が用意されているわけではない。

しかしながら、過激でウケ狙いの台本の言葉それ自体よりも西野七瀬さんがキャラの恐ろしい側面を暴かれていきながら、あのニヘラニヘラした感じで切り抜けていく演技をしていくそれ自体の方が圧倒的に面白いし説得力があるのだ。それはこのフニャフニャした可愛らしさがまさに西野七瀬さん本人の魅力であり、どんなに腹黒い事実を暴露されてもその可愛らしさで切り抜けていく姿がめちゃくちゃリアル(実際に腹黒いって意味じゃなくて、実際に腹黒くても西野七瀬さんなら男も女も、俺も君も、誰もが許してしまうだろうって感じの意味)だったからのような気がする。そういう重層的な面白さを意図してか意図せずか見せていて魅力的だった。

あとは井上小百合さんも自らの特権的な舞台経験を活かしてか(恐らく脚本では指定されていない)"動き"という観念による笑いを恐らく唯一舞台の中に持ち込んでいた。一々動きが大仰で、飛び跳ねたり、左右に移動したりしていた。周りに動きがほとんど無い中で、こういう芝居を観るとなんだかそれだけでウキウキしてしまう。

あと米徳京花ちゃんも一生懸命に頑張っててかわいかったが、まあしかし、集計結果としてはこの4人は全員落選してしまうのである……。

第二幕

第一幕を経て、集計が終わって少しすると第二幕が始まる。福田雄一の脚本/演出による1時間ほどのコメディだ。去年同様、アイドルたちの演技は基本的には良かった。今回の舞台における救いがあるとすればそれだ。台詞が飛んだり、噛んだりというところで失敗するという場面も確かにあったが、それを協力しながらお互いカバーし、何とか巻き返そうとする姿は今回福田雄一の意図した脚本/演出その全てを合算したものより圧倒的に美しく面白くハラハラして感動的だった。

そもそも第二幕における演出面の問題としてもっとも致命的なのも、第一幕と同じで魅力的な舞台装置やワクワクするような動きの欠如である。背景として"ここがどこであるか"などという説明的な役割を果たすに過ぎないあまりに貧しいセットはこの劇が舞台である必然性など何ら証明しようともしない怠慢なものであるし、そんなショボいセットの前で女優たちは一向に動こうせず(そういう演出だから仕方ない)、ただただ突っ立ったまま台詞を喋る。巨大な舞台上に存在する女優たちの現前性のようなものはまったく感じられない。そもそもアイドルという実際にそこに存在すること自体何よりも価値がある存在を何故か動かせようとせず、その身体的魅力を一向に魅せようとしないのは演出における愚鈍とも言えるほど大きなミスなのではないかと思った。

音楽の使い方もまったく魅力的ではなかった。第二幕では歌を流しそれに乗ってアイドルたちが踊るというシーンがいくつかある。しかしそれは普段ライブで彼女たちが行うダンスをそのまま舞台上でやってみせたものでしかないのだ。最低のセンスによるユーモアでダンスがヘロヘロになってしまう、というシーンがあるにはあるがそれだって舞台の有機的な面白さとは到底言えずただその場しのぎの笑いにすぎない。そもそも歌を流してアイドルが踊るというのはそれだけで価値があり、最高のものなのだが、その魅力をそのまま舞台で披露しても何の面白みもない。それはまったく想定内の面白みであり、わざわざ舞台で行うのであれば何らかの創意工夫が混ぜられるべきだろう。deuxではそれがあったはずだ。今回はそれがない。

なら脚本で魅せてくれるのか、ギャグが面白いのかと言うと案の定そうではない。その機能を援用するという意味ではまったく無くただ印象的な名前を散りばめるにすぎない、安易という以外の形容が見当たらないパロディ(しかもその元ネタはワンピースやガンダム、パズドラなどといったもの。同じものを愛する同志に対する暖かい目配せのようなものすら存在しない)が多用されていることが象徴的なことだと思う。つまりこの脚本は面白い(とされている)単語や一発のハッタリだけで笑わそうとするに過ぎず、会話のやり取りによっておかしみを生み出そうとするタイプのユーモアはほとんど用いられていない。それは単発的な笑いを生み出すかもしれないが、ダイナミズムや知的なユーモアというものをまったく欠いた作品としてお粗末という評価を免れられない性質のものであった。

つまり、この舞台においては重層的な説話も自分の作家性を持ち込んだ表現というのも一切存在しない。面白"そうな"言葉をただ連発し、それを繋げて舞台の形式だけ整えていくがそこには舞台ならではの面白さや演出的な凄みもまったくなく、メンバーが何か喋っているそのことだけが面白いというまさに学芸会のまね事という表現が相応しい作品に仕上がっているのである。

 そんな愚かな第二幕がようやく幕を閉じたかと思うとエンドロールで流されるのはメンバーたちが練習をしている姿の映像である。はあ?と思った。"僕の演劇は「頑張らない演劇」ですが実は彼女たちは「頑張って」真剣に取り組んでます、感動的でしょ?"とでも言いたいのだろうか。最低の表現としか言い様がない、開いた口が塞がらなかった。

思ったこと

そもそもコントで笑わせるということは弛緩した雰囲気や馴れ合いの中から生まれる同情的な笑いを引き出すことでは絶対に無いはずだ。それは他人の常識を揺るがし世間というものに洒脱に挑戦する正しく力強い文化的営みであるはずだと俺は信じてきた。しかしそんな確信など根本的に無意味で、ただなんとなくの雰囲気で笑い、ダラダラと予定調和的なものだけで笑うことだけが"正しい"のだという世界を突きつけられたような感覚があった。

第二幕でこんなシーンがある。主人公が護衛の部下を選出するという場面で、ある部下が自分のアピールとして「ジャッキー・チェンブルース・リーが好き、最近ではクローズ/zeroが好き(だけど自分の喧嘩が強いわけじゃない)」というボケをかまし、それに対して別のキャラが「映画見てるだけじゃ何の役にも立たない!」とツッコみをするやり取りをする。まさにその通り、映画や文化を観ていてもそれは何の役にも立ちはしないのだろう。大衆的娯楽や文化というものを端から端までナメきった不誠実さに満ちた演劇というのもおこがましい存在が、赤坂アクトシアターという決して狭くない場を連日満員にしているこの現実に対して、我々は何か抗うことすら出来ないのだから。

ただ自分は本当に無力だということを認識しながら、それでもこれだけは言いたい。舞台や映画というもの、それはもはや伝統的とも言え、その歴史において数々の言葉に出来ないエモーションを観客の中に生み出させてきた産業だ。これを用いながら、驚嘆するほどに低いクオリティの出し物を我々に提示し、その言い訳として「あえて」だとか「逆に」という言葉を濫用する。「このショボさが逆に面白いでしょ?」と言わんばかりの姿勢。申し訳ないがそれは才能と努力を欠いた人間の怠慢で、過去を知ろうともしない傲慢な態度にしか見えない。今回は第一幕でも第二幕でもそんな客と文化をナメきった脚本/演出家の態度だけが伝わってきた。はっきり言ってそんな奴らはさっさと全員死んでしまえばいい。こんなチンケなものに振り回されるアイドルたちとこんなもののために7000円を払わされる我々の身にもなってくれよ。以上。

5/31

最近本当に落ち込むことや下らないことが多すぎて、自分が映画とか音楽をひたすら見たり聞きまくったりしてるのすら果たして何のためなのか、はっきり言ってよくわからなくなっていたのだけれど、そんな状態で観たベロッキオの『夜よ、こんにちは』には大いに勇気づけられた。映画とはフィクションとは、決して現実の模造品や劣化コピーなどではなく、それ自体が現実と対比されるべき存在として我々に迫ってくるものであると言わんばかりの本当に素晴らしい作品。ラストでピンク・フロイドが流れる映画は名作ですね。

餌食・ポケットの中の握り拳

爆音映画祭で『餌食』と『ポケットの中の握り拳』を観る。バウスシアターへ行くのもこれが最後。

『餌食』はこれがもうとにかく最高で、マトゥンビやピーター・トッシュによるキラー・チューンがデカい音で鳴り響く中(79年という、ポスト・パンクの連中によってレゲエ解釈が行われていくのとほぼ同時期にこの作品を撮るという若松孝二の同時代性!)でボロッボロに退色したフィルムを観るという行為自体が贅沢。ニューシネマ(個人的にはバイクで駆け抜けるシーンで『サンダーボルト』を想起)のようなクライマックスと若松孝二の怒りがスクリーンに爆裂するかのようなラストにただただ唖然。

『ポケットの中の握り拳』はヌーヴェル・ヴァーグなのかネオレアリズモなのか、もうなんだかよくわからないのだけれど、ひたすら狂った人物が動き続けるという凄まじい作品で、その瑞々しくて強烈な動と静の前では神も国家も平伏すしかない。まさに「神をも畏れぬ」という形容詞はこの作品のためにあるかのようだった。アクションの素早さと動き回るカメラワークというスタイルの美しさもさることながら、フィルムに焼き付けられた若きベロッキオの不遜な態度にこそ感動せずにいられない。

ナマで踊ろう

ひとまず歌詞カードを読みながらインストの方だけ聞いている。マキュウのアルバムとかでもよくやったけれど、この後にインスト盤じゃない方を聞くと意外と新鮮な感覚があって楽しい(はず)。が、なぜかこれが逆になると単なる歌抜き音源にしか思えないのである……。

5/26

不気味な虚無そのものの器、キャラクターではなく単にそこにあるものとして立つ前田敦子のきわめて映画的な存在感を再確認させてくれる怪作『Seventh Code』を観たり、素晴らしきポップ・ミュージック"ラブラドール・レトリバー"を幾度と無く耳にしたり、最近資本主義が生み出した怪物としてのアイドル産業にしか作り得ないような美しさを持った作品に触れる機会が多かった。だからこそ、その負の側面として想像出来ないほどにおぞましい事件に触れてしまったことはこの文化の消費者の一人として本当にショックが大きい。胸が痛むどころではない。あってはならないことだ。

犯人の動機についてなど全てが明らかでない今、憶測で物を語るべきでないとはいえ、このような事態に直面して確率論の問題だとかイレギュラーのやったことだなどと言うことが出来なくなってしまった。もっとより根源的な問題があるのではないかと思うし、そうではないようにも思える。ただ一つ言えるのは警備体制を強化して、という対処療法がもちろん必要だし検討されるべきだろう。握手会の中止も考慮に入れるべきなのかもしれない。

ただこの事件に一切関係のない自分が、あるとすれば単なるこの文化の享受者であるというその一点においてだけなのに、なぜここまで落ち着かず辛いのかすらよくわからない。ただ、犯人がどういう動機なのかわからない今だからこそ色々考えてしまった。すると自分の中にああいった攻撃性の裏返しとしてのタナトス欲求が無いのかと少し掘り下げてみると確実に否定することは出来ないことに直面してしまうし、まったく関係の無い存在に対する心配やこの胸のざわつきと、犯人がまったく関係の無い人間に対して凶行に及ぶに至った動機のようなものがまったく異質なものと言える自信もない。こうした圧倒的なこの世界のおぞましさのようなものに触れて認識してしまった今、自分がそのおぞましさの中にいるということが本当に気分が悪い。こういう時に極端な話を持ち出すのは良くない癖だと思うけど、もうほんと今50枚くらい使ってない握手券あるんだけどこれが全部紙切れになってもいい。しかし、そんなことを吐いても一ヶ月もすれば平気で握手に行っている自分が容易に想像出来るわけで。それはやはり否定したい欲求なんだけれど、しかしその欲求だけが自分にとってはアイドルが正しい文化産業であると言えるための根拠だと今は信じたい……。相変わらずとりとめのないことばかり書いていてすいません。

5/23

最近爆音映画祭に通っている。

ラスト・ワルツ

冒頭、"THIS FILM SHOULD BE PLAYED LOUD"という但し書きに導かれて聞こえるビリヤードの快音が最高に気持ち良い。このどこか喜劇的で遊戯性に満ちた音が映画全体を支配しているかのような気分にさせてくれる、そんな音だ。ビリヤードの音でそれだから言わずもがなライブシーンは最高で、巨大な爆音で奏でられる歌心に満ちた演奏はそれだけで十二分にイメージを想起させてくれる。映像より雄弁な音楽もあるということだろうか。目を閉じて音に身体を委ねているだけでロックという音楽がどこから来て、どこへ行くかが語られているかのようだった。

そもそも『ザ・ラスト・ワルツ』はザ・バンドという優れた一つのロックバンドの(ロビー・ロバートソンの言葉を借りれば)「始まりの終わり」についての映画である。と同時に、80年代以降アメリカにおいて産業としてのロックが完全に衰退していゆく、という歴史的事実を踏まえて観ると、これはアメリカが生み出したロックという音楽そのものの「始まりの終わり」の映画でもあるとも言える。だから、マディ・ウォーターズやステイプル・シンガーズといった黒人たちの存在は、純粋に彼らの音楽的豊穣に触れるということのみならずロックという音楽がどこから来たのかを我々に再確認させる意義を持っているし、ラストの祝祭の大団円的だがどこか物悲しい雰囲気は、ザ・バンドという一つのバンドが終わるだけでなく、より大きな歴史の一つの断面に触れているかのようなしめやかで荘厳なものを感じさせる。そんな大きな宴のあとのような感触がありつつもしかし、センチメンタルな雰囲気だけで終わるのではない。エンドロール、5人だけのささやかなワルツは時代が移り変わっても何も変わらないものがあるということを示唆するかのようにもっとも瑞々しい演奏、最高。

ドクター・フィールグッド オイル・シティ・コンフィデンシャル

オリジナルメンバーの中で存命する3人とブリローの妻、母親を中心としたドキュメンタリーで、幼少期からバンドの結成、成功とその終焉を描く。ライブ映像がほとんど残ってないのか使い回されまくる在りし日のバンドの姿やライブシーンよりも、寒々しい空と滔々と燃える炭鉱の炎以外に何もないキャンベイ・アイランド(オイル・シティ)の風景が印象的。彼らがR&Bやブルースに傾倒したのはこの何も無さゆえだと言わんばかりの何も無さ。

しかし『ラスト・ワルツ』もそうだけどバンドが終わる時を描いた映画のあのセンチメンタルな後味というのはなんなんだろうか。若者たちの一つの共同幻想が成立して成功してふとしたきっかけで終わってしまう、その呆気なさがどうしようもなく魅力的に見える。そんな寂寥感がありつつも、現在のウィルコ・ジョンソンが閑散とした街の中、一人でギターをかき鳴らしながら歌うその姿と過去のバンドの映像をオーバーラップさせる演出は非常に良かった。街も時代も変わってしまうけれど何も変わらないものもある、と言わんばかりに当時のように動きまわるウィルコ・ジョンソンの狂気(侠気)にグッと来る。

ビースティ・ボーイズ 撮られっぱなし天国

選ばれたオーディエンス50人が手持ちカメラでビースティ・ボーイズマディソン・スクエア・ガーデン公演を撮りまくるというなんだか思いつきのような作品。とはいえビースティ・ボーイズの素晴らしさとは多分、思いつきを熱意と愛情でそのまま実現してきたところにあるのだということを改めて実感。無様なリズム感を晒しながらも俺たちに出来ることはこれなんだと言わんばかりにヘヴィなギターをサンプルすることで仕上げられた"Licensed to Ill"に心打たれた人間として、この初期衝動に満ちた映像にも同じように感じてしまった。

その思いつきの面白さと同時に、これはビースティ・ボーイズの第二の全盛期が間違いなく"To The 5 Boroughs"期にあったのだということを物語るフィルムでもある。その全盛期の活力を支えているのは、使い古された言葉を用いるなら"ストリート感覚"というものであって、この感覚を強調することこそが911以降のアメリカ、ニューヨークが直面した状況に対してビースティーズが何をすべきかというステートメントでもあった。アンコール後のラストで"Sabotage"をブッシュ大統領に捧げる姿からも当時の彼らが何と闘っていたかは明らかだ。

50人の素人が持ったカメラは好き勝手なものを映していて、それは例えばステージ上の3人だけではなく、踊り狂うオーディエンスだったりトイレに向かう自分だったり、あるいは仲間と勝手にアリーナ席へ侵入しようとする(そして失敗する)姿だったりが捉えられている。エンドロールに至っても楽屋内のメンバーよりも熱狂する彼らの感想(それは映画を観た我々の想いとも共鳴する)にこそフォーカスが向けられている。このように普通のライブドキュメンタリーでは省みられることの少ないオーディエンスの一人一人が、ステージ上のメンバーと同価値のものとしてカメラに収められている。この"自分たちとオーディエンスが地続きであるという確信"に満ちた編集が映画の中心となっていて、それこそが彼らなりの"ストリート感覚"の映像的表現だったのだろう。そのことは"ここにいるみんながスターだ"と声を詰まらせながら語られる終盤のMCでも明らかで、サウンドからもオールドスクールへの回帰が特徴的なこの時代に、素人にカメラを回させるこのフィルムが作られたのは偶然ではないように思える。そして俺はこの時期のビースティーズが特に好きなんだ。感動。

5/12

乃木坂アンダーライブ

渋谷O-East(今はTSUTAYA O-East?どっちにしろ……)で3部制のうち全部を見る。ライブハウスの近距離で、60万枚CDを売っているグループのライブが見れるということでまあ非常に楽しかったです。もしかしたら2012年の年末にZepp Tokyoで見た同じグループのライブより楽しめたかも。セットリストもシングル曲中心でアッパーながらそれぞれの表現を模索している感じがあって、例えば中田花奈さんや市來玲奈さん、永島聖羅さん、斎藤ちはるさんなんかは見ててすごく楽しかった(100%俺の好み)。

ただまあ橋本奈々未さんや白石麻衣さんなどといった超絶美人たちの更にその美人さゆえだけではない凄さというか、単純に言えば華を持った人たちだけが持つ凄さというのもやはりあってそれは誰しもが持つものではないのだなあということも実感した。その片鱗は衛藤美彩さんと伊藤万理華さんはあるような印象を受けたけど、他のメンバーには残念ながらそこまで感じられず。しかしその一事によって劣っているとは思わせないほどの熱量がそこにはあって、しかもそれが直に伝わってくる距離だったのでオールオッケー……などと考えていると自分は(文句を色々言いつつも)乃木坂46というグループが好きなのだなあと恥ずかしい結論に。『君の名は希望』とか本当にすごく良かったです、はい。

ニール・ヤング / ジャーニーズ』

爆音映画祭で。クレイジー・ホースと共にではなく、ギター一本の独り身で舞台へ立つニール・ヤングの佇まいの説得力。その根拠は何なのかということがライブシーンの随所で挟まれるドキュメンタリー・タッチの映像で語られる。

しかし爆音映画祭というイベントにおいて目と耳が行くのはやはりライブシーンであって、ギターの圧倒的轟音が大量のスピーカーから放たれることによって観客を体の底から震わせる。この圧倒的な体験に感動。デカい音を出すことはショボい音を出すことより常に優れているのである。特に髭の一本一本を数えられそうなズームで捉えられたニール・ヤングが身体を揺らしながら歌い、カメラに飛んだ唾を拭く暇も与えられずにひたすら鳴らされ続ける"Hitchhiker"の執拗な轟音とその反復の快楽ときたら……。

それと、「街で見覚えがあるものはすっかり無くなってしまった。だが心に残り続けている。……亡くなった友人たちもそうだ。」という旨をニール・ヤングがぼそっと漏らす下りには思わず涙。

4/21

周りの人がなんだかみんな大人に見える。年齢からすれば私も早く色々なことに折り合いをつけていかなければいけないのだが、しかし私は自分より年上なのに子供な人(というか、そう見える人)を見つけては安心して、今日も幼児的な振る舞いをしてしまうのであった……。アイドル、最高!俺は最低!

ロボコップ

をギリギリ駆け込みで見てきたのであった。MMシネマズみなとみらいにて。グロい映像とアメリカ人の神経を逆なでするような演出と構成はヴァーホーヴェンイズムを継承していると言えるのでは。徹底したカタルシスの無さと合わせて全編に漂うイヤ~な感じはなかなか良い。あの重みも何もあったもんじゃないようなアクションの不得手はちょっとヒドすぎるなあとは思いますが(ああいうFPSみたいなアクションは流行りなんでしょうけど好きになれない)。あとベーコンのルシアン・フロイドの3つの習作』が社長室に飾ってあったのと前半の展開からもっとアート風というか、人間の精神というのは……みたいな哲学的な話になっていくのかと思ったら、そんなことはまるでなく割りと小さな話に収まってしまったのが肩透かし感。ラストのサミュエルLジャクソンのマザーファッカーと後に流れるクラッシュの皮肉で痛快な響きがサイコーで、それだけで全部許せる気がする。

4/15

乃木坂アンダーライブ

ちょっと感動してしまうくらい良かったです。なんでだろうなーと考えると、単に好きなメンバーが全員いたし久しぶりに見れたからっていうのが一番の要素なのかもしれないが、しかしそれだけで言及を終わらせることも出来ない類の良さがあったと思う。言語化出来ない魅力が果たして何なのかは相変わらずわからない。根本的なところで音楽(付言しておくと、生歌も選曲も良かった)や踊りとかは単なる媒介であってそこと関係ない部分に感動しているからなんだろうけれど、しかしそれは単なるフェティシズムなのではないかという不安があるし、何より感じた魅力をアイドルという存在それ自体が持つ魅力というものに帰着させられるほど、アイドルという存在を(映画や音楽のようには)信じ切ることが自分にはまだ出来ない。まあこういう話になると乃木坂関係ないんですけど。何にせよ良かったという思いは本当純粋にライブとしては一昨年のZepp以来楽しかったような気がする。それは彼女らの持つ熱気と意気込みというものに触れたから、ということにしておきたい。あと自分がこういう主流の中の傍流、のような存在にロマンを感じてしまう人間であるということを再確認した。

ところで楽しかった代償として楽天カード会員限定のアイドルライブというまったくゾッとしないイベントに参加してしまった負い目というものが生じてしまったのですが、それはこれから先抱えて生きていきます。