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Bob Dylan

を見に行った。9日にDiverCity Tokyoで。何回も来ているはずなのにまたZepp TokyoとDiverCity Tokyoを間違えてしまった…。

話には聞いていたが、基本的には『Love and Theft』以降の曲を中心としたアメリカン・ルーツ・ミュージック。"Tangled Up In Blue"や"Blowin' in the Wind"などもやっていたが、どれも原曲を留めないほどアレンジしていて往年のヒット曲を回顧するといった雰囲気は皆無。歌のフレーズから「あ、この曲をやっているんだ」とわかる感じ。レイドバックしながらも正確無比なバックバンドは確固たる一つのイメージを作っていくかのように音を置いていき、そのアンサンブルの上でディランはしわがれた声で歌なのか呟きなのかぼやきなのか、言葉を吐いていく。ブルースであり、フォークであり、カントリーでもある。ディランが鍵盤を強く叩けば、ロックンロールの萌芽を見せたりもする。こういう演奏での音楽ってある種、観客に緊張を求めないものであってともすれば弛緩してしまいかねないとも思えるが、ここには一つ一つの言葉に耳を傾けさせる説得力がある。それが何に起因するのか、正直言ってよくわからない……。ギターも持たず、メロディらしいメロディを歌うわけでもないのにこの圧倒的音楽的な豊穣さに触れる感覚。ただ、豊かさだけではなくどろっとした黒い何か深淵なものもこの歌は孕んでいるように思える。50分×2部を貫いているのは禍々しさと豊かさが素知らぬ顔で同居したアメリカン・ルーツ・ミュージックの持つ緊張感。

が、このルーツ・ミュージックへの傾倒を、"老いたミュージシャンの円熟の境地"などと一言で表現するのは避けるべきだろう。今のディランの老練さは、フォークやロックなどという便宜上の分類分けによるわかりやすさを避け続けてきた彼の延長線上にあるのではないか。ウディ・ガスリーを範として奥深き音楽の真髄のようなものを探求してきた彼の集大成のようにも思えるが、そうではないようにも思える。なぜならジョニー・キャッシュと共にカントリーを歌ったかと思えば「プロテスト・ソング」を歌うし、ゴスペルを歌い神に仕えたかと思えば返す刀であっさりと宗旨替えしてしまうのがディランだったはずで、そう考えると今の音楽性もそんな男の探求の一つの形にすぎず、アメリカン・ルーツ・ミュージックという形式ですらあっさりと捨ててしまうのではないか。ジャンルというものは究極的に彼の前では意味がなく、その奥に潜む人間性への探求こそが目的であるような……。

いや、自分には持て余すようなデカい話しになってしまった。少なくともディランはディランとして生きてきたという重みを感じるステージでした。あとミーハーで申し訳ないんですけれど、眼光の鋭さとか横顔、吹くハーモニカの音とかは(記録映像で見る)昔の姿とまったく変わっていないってところになんだか感動してしまった。本当に格好良かったな。