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4/12

映画

『怪人マブゼ博士』(1960)

オーディトリウム渋谷で。ラングはポツポツとしか見たことがない私が言うのもなんですが、とてもラングらしい(わけわからん)作品だったと言えるのではないでしょうか。ここで「ラングらしい」というのはナチスに追われる前の彼がドイツで撮ったいわゆる表現主義的な映像そのものの凄まじさで観客を圧倒するそれではなく、登場人物のヒューマニティーの欠如(全員ひとでなし)や濃密な密度の演出、そして「監視と管理」という主題などなどのことを言いたいと思います。それが全部あります(なんという循環論法)。

さて、明らかな低予算映画であり、一見何の事はないB級ノワールでありながら名匠フリッツ・ラングの遺作であるという微妙な立ち位置の(笑)『怪人マブゼ博士』は、傑作だと思います。

この作品は明確な視点を設定せず99分の間に目まぐるしく語り手が変わり、かつその語り手それぞれの本当の目的が終盤まで明らかにされないという非常にわかりにくい構成であるのですが、映像に込められた凄まじい密度とバラバラの視点からなるシーンの1個1個をきわめてテンポ良く繋がれていくことによって、映画は説明不足という印象を与えることなくグイグイと推進していきます。まず秀逸だと思ったのはその繋ぎ方です。例えばあるシークエンスにおいては登場人物の刑事がパイプを灰皿に「コン、コン」とぶつけてシーンが終わるかと思えば、それと極めて似た「コン、コン」というドアのノック音が媒介となり次のシーンに突入するという演出が取られます。この音の使い方の華麗さにはシビれました。映画的なリズム、テンポの持続として非常にわかりやすい。他にもモノローグで終わりそのモノローグを繋げたまま、モノローグで語られる人物のクローズアップから次のシーンが始まるという演出が多用されたり、とにかく映像と映像の繋ぎ目に対する執着のようなものを感じました。その編集の心地よさが登場人物の視点というものを超越した映像全体としての語りのうねりのようなものとして登場することで、我々観客はサスペンスを続けるための疑問(ドクトル・マブゼの正体とは?そもそもドクトル・マブゼは生きているのか?)が解消されないまま、映画が大富豪と自殺志願者の女とのロマンス的展開に発展していてもどこか安心して見ていられるのです。この映画は主人公らしい主人公というのは設定されず、また前述した通り登場人物はほとんどの場合目的を隠し持っていて、観客は映像の密度と情報の不足を同時に受け入れる必要があるのですが、不思議と置いてけぼりにされているような感覚はないのです。そこが魅力的だと思います。

また、魅力的な娯楽作であるからといってそこだけを評価するのは勿体無いようなテーマ性というものもこの作品からは感じられます。これは上映後のトークショーで言っていたことと重なるのですが、ホテル中に監視カメラが張り巡らされているという設定はなるほど窃視的ではあります。が、ラングのそれではヒッチコックのそれのように覗き見の快楽と結び付いているわけではありません。むしろこのホテルがゲシュタポによって作られたものであるという設定からも明らかであるように、ここでの「監視」とはナチス的な「管理」と地続きなものであり、戦後20年が経とうとしている当時のドイツでもナチス的な傾向は払拭されていないぞ、とこのアメリカ帰りの監督は言うのです(笑)。公開当時は批評家に酷評されたようですが、しかしこうした問題提起をしたラングの先見性は、もはや監視社会どころかあたかも牢獄であるかのような現在においてもなお通用するどころか、公開当時以上に迫真のものとして我々に迫ってくるのではないでしょうか。

忘れてはならないのがラストのアクションにおける心躍るB級感です。ホテル内で犬に噛み付かれる捜査官のカットからジャンプ・カット的に訪れる外からホテルへの唐突なマシンガン連射、デカい銃撃音と共にバタバタと倒れていく警察官、死体を盾にする(笑)インターポール捜査官と犯罪者との銃撃戦、そしてアメリカ車を駆けるマブゼ博士一味と刑事たちの追跡劇。私の好きな作品である『復讐は俺に任せろ』でもそうだったのですが、ラング監督の撮るB級ノワールは観客へのサービスなのでしょうか、なんだか少年漫画的に心踊る展開が用意されていることが多い気がします。しかもそれが映像的にはどこかちゃちさが残っていて、だが逆にケレン味になっていることで活劇として異様に格好良いものになっているのです。『メトロポリス』などの超大作を撮った監督とは思えない、予算の範囲内の(笑)通俗的な格好良さといいますか、とにかく愛せます。

映像のテンポの良さ・小気味良さと、「一つの疑問が解決したと思ったらすでに新たな疑問が現れ、すでにそれに囚われている」という構成、それを補強するかのように「自らの行動はすべて予測されている」という感覚を与え続けるカメラによる監視・予知能力者の存在による居心地の悪さとが併存しながら、猛烈なスピードの演出で突っ走っていき、ラストの活劇に繋がっていく流れは見事としか言いようがありません。そしてそれは、ラングの「監視と管理」という主題を実に恐ろしく表現しているのです。また、登場人物の重層的な設定(予知能力者かと思えば…であり、保険屋かと思えば…であり、ヒロインかと思えば…)と決着が見えないまま進行していく現実感の無さはまさに映画的であるといえ、老いた名匠フリッツ・ラング監督の撮るショット一つ一つにほとばしる老練と無縁の才気と相まって、そこには映画でしか成し得ないものが存在していたと思います。遺作に相応しい風格や威厳よりも、もっと撮って欲しかったという素直な感想が先走るような魅力的な作品でした。