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最近爆音映画祭に通っている。

ラスト・ワルツ

冒頭、"THIS FILM SHOULD BE PLAYED LOUD"という但し書きに導かれて聞こえるビリヤードの快音が最高に気持ち良い。このどこか喜劇的で遊戯性に満ちた音が映画全体を支配しているかのような気分にさせてくれる、そんな音だ。ビリヤードの音でそれだから言わずもがなライブシーンは最高で、巨大な爆音で奏でられる歌心に満ちた演奏はそれだけで十二分にイメージを想起させてくれる。映像より雄弁な音楽もあるということだろうか。目を閉じて音に身体を委ねているだけでロックという音楽がどこから来て、どこへ行くかが語られているかのようだった。

そもそも『ザ・ラスト・ワルツ』はザ・バンドという優れた一つのロックバンドの(ロビー・ロバートソンの言葉を借りれば)「始まりの終わり」についての映画である。と同時に、80年代以降アメリカにおいて産業としてのロックが完全に衰退していゆく、という歴史的事実を踏まえて観ると、これはアメリカが生み出したロックという音楽そのものの「始まりの終わり」の映画でもあるとも言える。だから、マディ・ウォーターズやステイプル・シンガーズといった黒人たちの存在は、純粋に彼らの音楽的豊穣に触れるということのみならずロックという音楽がどこから来たのかを我々に再確認させる意義を持っているし、ラストの祝祭の大団円的だがどこか物悲しい雰囲気は、ザ・バンドという一つのバンドが終わるだけでなく、より大きな歴史の一つの断面に触れているかのようなしめやかで荘厳なものを感じさせる。そんな大きな宴のあとのような感触がありつつもしかし、センチメンタルな雰囲気だけで終わるのではない。エンドロール、5人だけのささやかなワルツは時代が移り変わっても何も変わらないものがあるということを示唆するかのようにもっとも瑞々しい演奏、最高。

ドクター・フィールグッド オイル・シティ・コンフィデンシャル

オリジナルメンバーの中で存命する3人とブリローの妻、母親を中心としたドキュメンタリーで、幼少期からバンドの結成、成功とその終焉を描く。ライブ映像がほとんど残ってないのか使い回されまくる在りし日のバンドの姿やライブシーンよりも、寒々しい空と滔々と燃える炭鉱の炎以外に何もないキャンベイ・アイランド(オイル・シティ)の風景が印象的。彼らがR&Bやブルースに傾倒したのはこの何も無さゆえだと言わんばかりの何も無さ。

しかし『ラスト・ワルツ』もそうだけどバンドが終わる時を描いた映画のあのセンチメンタルな後味というのはなんなんだろうか。若者たちの一つの共同幻想が成立して成功してふとしたきっかけで終わってしまう、その呆気なさがどうしようもなく魅力的に見える。そんな寂寥感がありつつも、現在のウィルコ・ジョンソンが閑散とした街の中、一人でギターをかき鳴らしながら歌うその姿と過去のバンドの映像をオーバーラップさせる演出は非常に良かった。街も時代も変わってしまうけれど何も変わらないものもある、と言わんばかりに当時のように動きまわるウィルコ・ジョンソンの狂気(侠気)にグッと来る。

ビースティ・ボーイズ 撮られっぱなし天国

選ばれたオーディエンス50人が手持ちカメラでビースティ・ボーイズマディソン・スクエア・ガーデン公演を撮りまくるというなんだか思いつきのような作品。とはいえビースティ・ボーイズの素晴らしさとは多分、思いつきを熱意と愛情でそのまま実現してきたところにあるのだということを改めて実感。無様なリズム感を晒しながらも俺たちに出来ることはこれなんだと言わんばかりにヘヴィなギターをサンプルすることで仕上げられた"Licensed to Ill"に心打たれた人間として、この初期衝動に満ちた映像にも同じように感じてしまった。

その思いつきの面白さと同時に、これはビースティ・ボーイズの第二の全盛期が間違いなく"To The 5 Boroughs"期にあったのだということを物語るフィルムでもある。その全盛期の活力を支えているのは、使い古された言葉を用いるなら"ストリート感覚"というものであって、この感覚を強調することこそが911以降のアメリカ、ニューヨークが直面した状況に対してビースティーズが何をすべきかというステートメントでもあった。アンコール後のラストで"Sabotage"をブッシュ大統領に捧げる姿からも当時の彼らが何と闘っていたかは明らかだ。

50人の素人が持ったカメラは好き勝手なものを映していて、それは例えばステージ上の3人だけではなく、踊り狂うオーディエンスだったりトイレに向かう自分だったり、あるいは仲間と勝手にアリーナ席へ侵入しようとする(そして失敗する)姿だったりが捉えられている。エンドロールに至っても楽屋内のメンバーよりも熱狂する彼らの感想(それは映画を観た我々の想いとも共鳴する)にこそフォーカスが向けられている。このように普通のライブドキュメンタリーでは省みられることの少ないオーディエンスの一人一人が、ステージ上のメンバーと同価値のものとしてカメラに収められている。この"自分たちとオーディエンスが地続きであるという確信"に満ちた編集が映画の中心となっていて、それこそが彼らなりの"ストリート感覚"の映像的表現だったのだろう。そのことは"ここにいるみんながスターだ"と声を詰まらせながら語られる終盤のMCでも明らかで、サウンドからもオールドスクールへの回帰が特徴的なこの時代に、素人にカメラを回させるこのフィルムが作られたのは偶然ではないように思える。そして俺はこの時期のビースティーズが特に好きなんだ。感動。