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アイドルファン向けだからだとか対象年齢が若いからだとかいう理由で不誠実な作品が許されるということはありえないと信じる理由について

最近『LEGOムービー』という映画を観た。これはタイトルの通り、おもちゃのレゴを題材とした映画だ。驚くべきことに映画のほとんどがレゴ(シャワーの水や爆発の煙まで!)で形成されているという、まるでアイディア一発を偏執的なまでの創造力で映画としていったかのようなまあなんというか凄いものだった。フィル・ロード&クリス・ミラー監督の過去作がお好きな方はもちろん、下記で述べる理由によってエドガー・ライト監督作がフェイバリットだという方々にも推薦したい。

この映画の対象年齢は低い。少なくとも世間的にはいわゆる"子ども向けの映画"なのだろう。実際に俺が見に行った時も観客は小さな子ども連れの親子がほとんどで俺のような映画ファン(a.k.a. キモヲタ)や、"毎週シネマハスラーを聞き、毎月映画秘宝を読みます"みたいな人はかなり少なかった。というか俺くらいしか一人で見てる人はいなくてちょっと恥ずかしかった。いや、それはいい。しかし、この映画は(重要な要素のネタバレになるのでぼやかす形で言う)後半、"レゴというおもちゃ"にまつわる我々が普段持っている視点を重層的なものとして映画内に用意し、メタ的に対立させ、物語へ絡ませることにより、きわめて真摯な表現足りえる完成度を有するものとなっていたのである。ただ単に映像的なスペクタルで観客を驚かせることに留まらず、「レゴを使って映画を撮る」という行為に対して誠実な問い掛けとそれに対する一つの答えを提示していた。そしてその答えはレゴというおもちゃに対する暖かな目線から生まれたものであり、作り手の愛情とそれを形にするプロフェッショナルたちの信念が込められていた。そこに俺は感動してしまったのである。

さて、自分はまあいいおっさんなのでとても楽しめたのだが、観ている間思ったのは「後半の流れに子どもたちはついていけるのだろうか?」という事である。スムースな編集とメタ視点の絡ませ方がうまく、映像表現として説話機能が不十分ということはないものの、そもそもこうした重層的で少し複雑な表現(しかも物語の世界観を壊しかねないもの)というものが幼い子どもたちに受け入れられるのかちょっと不安になってしまったのだ。

しかしその懸念はまるで杞憂だったことを認識する。上映終了後、映画館に照明が灯りそこら中から聞こえたのは他でもない子どもたちが興奮気味に親に語る「おもしろかった!」「楽しかった!」の声だ。中には「感動した」という幼い声もあったのを鮮烈に覚えている。

対象年齢が、だとかアイドルオタク向けだから、という理由を付ければ不誠実で予定調和的な語りをしていいのだろうか。アッパラパーベロベロバーみたいな幼児的な笑いをもたらすだけの存在をコメディと称することが許されるのだろうか。俺は、断じて違うと思う。子ども向けだからこそ子どもの想像力は最低限上回ってなければならないし、コメディだからこそ我々の考える「笑い」の常識というのを上回る予測不可能な体験でなければならない。アイドルオタク向けだからこそ、アイドルの魅力を十二分に引き出すのみならず、アイドルがかわいい以上の要素を突き付けなければいけない。子どもだろうといい年こいたアイドルオタクだろうと、不誠実な語りを平気で許容する連中が想定する「愚かな観客」など実際に存在するのか俺にとっては大いに疑わしい。仮にわからない表現を突きつけられたとしても、それが良質なものであるならば人々は何故わからなかったのか自分なりに考察することになるものだ。複雑な表現はまた、作品を介して他者と語り合う契機ともなるだろう。そして、それはとても豊かな時間だと考える。

そもそも、普段文化に興味が無い人々が集まりやすいからこそ誠実な語りを行うことで、異なる世代や異なるトライブの人々を文化の深淵でわけのわからない世界へと引きずり込んでしまうような作品こそがこのような場では求められるのではないか。そうした他者へのアプローチを行う努力を放棄し内輪向けの安易な方向へと転がってゆく表現を肯定することは、様々な異なる人々が混ざり合う観客という存在への冒涜であり、多様性を排除する乱暴さに満ちた行いだ。それに加担することは少なくとも俺は遠慮したい。