「東京パフォーマンスドール LIVE TOUR 2014夏~DANCE SUMMIT"1×0"ver1.0~」を観てきた

東京パフォーマンスドール LIVE TOUR 2014夏~DANCE SUMMIT"1×0"ver1.0~」の東京公演をO-Eastで観てきた。2回。14日と29日だ。

ところで俺が彼女たちに注目することになるきっかけは今年の6月29日に行われた"PLAY×LIVE『1×0』アンコール公演"の千秋楽に行ったことだ。まあつまりドドド新規なのだがしかし、渋谷の中央で見たその演劇は間違いなく、本当に素晴らしかったのだ。メンバーの顔も名前もパーソナリティも何も知らずに見た"アイドルの舞台"(しかも物語が連続していく中の最後の1つだけ)は真摯で情熱的で、豊かな音楽と鮮烈なイメージに満ちたものであり、率直に言って感動させられた。何故ならそこで展開されているものは観客との馴れ合い関係を前提とした下らないやっつけ仕事では断じて無く、正しく良いもの、優れたものがこの世に存在しているということを信じるメンバーとスタッフたちによって練り上げられた、何か良きものに肉薄しようとする意志に導かれた一つの作品であったからだ。

結論から言えば、今回のワンマンライブツアーにおいても『1×0』と同様の美しさがあった。それはつまり、言葉にならないエモーションに頼りがちな部分が大きいアイドルのライブ(しかしそれはそれで美しいし、否定されるべきものでもないと思う)において、何か絶対的に良きものを作っていこうとする意志があり、そしてその試みがパフォーマンスのレベルにおいて成功していることの美しさである。

今回のライブは、『1x0』でも見ることが出来たプロジェクションマッピングやLEDスクリーン、レーザーといった演出が随所に使われており、それは集大成のような(いや、集大成と評せるほど彼女たちを見ていないのが本当に口惜しい)趣があった。それと今回特徴的なのは「箱」を効果的に使っていたことだ。この公演の始まり方からしてふるっている。まず、メンバーそれぞれに合計9つの箱が用意され、箱にはメンバー扮する人形(ドール)が入っている。そこへ光が充てられ、音楽が流れることによってあたかも人形のねじが巻かれて、というより生命が吹き込まれたように躍動が始まる……という演出から本編に入っていくのだ。言葉で説明するとアイドルをただの人形として扱うが如きグロテスクな印象もあると思うのだが、むしろここではドールとしての固い表情ではなく、ドールがパッと光を得て華麗に動き出すその瞬間における彼女たちのクールな表現力を魅せることに重きが置かれていることが重要だ。そして曲中においてはその箱にメンバーが入ったり出てきたりするだけでなかなかに見応えがあるのだが、例えば箱の中でポーズを決めるとそれがプロジェクションマッピングと同期するなどといった凝った演出もされていて、奥行きのある視覚的な驚きをもたらしてくれた。後ろにあるためダンスの邪魔をすることも無く、空間を感じさせる上手い舞台装置だったと思う。

メンバーのパフォーマンスに関してもさすがにダンスや歌、煽りといった要素はハイクオリティなのだが、それを超えて彼女たちが多面的な表情や表現をしているところに好感を持った。曲の魅力を引き出すためのアプローチを丁寧に仕掛けていくことで、自分なりの表現というのがそれぞれ引き出されていくスリリングな感覚がそこにはあった。例えば『十代に罪はない』ではティーンの開けっぴろげで無敵な側面をアッパーに表現していた星来ちゃんが他の曲では(曲名失念、椅子を使うやつ)驚くべきほどに艶やかな表情をもってセクシーなダンスを披露していたり、『東京ハッカーズ・ナイトグルーヴ』でクールなロボットのように90年代的なサイバーパンクを一糸乱れぬダンスで表現したかと思えば、『DREAMIN'』で今この瞬間を生きる彼女たちが持つ煌きのようなものを個々の表現として鮮やかに見せてくれるのである。アイドルがステージに立つということはキャラを作ってそれを墨守していれば良いというものでは無く、流れた曲に適合させるために自分でも見知らぬ自分の側面を開拓し提示していく時にこそ本当の面白さが立ち現れてくるのではないかと思えた。見せ場ということから言えばそれ以外にもたくさんあって、いかにも歌謡っぽいメロディにガラージチックなパーカッションとアシッドなベースラインが偏執的につきまとう『おちゃめなジュリエット』は、らこちゃんの曲なのだが彼女の底が無いかのような笑顔と相まってヴィヴィッドな高揚感をもたらしてくれる。個人的には思い入れもある可愛らしいモータウン調の『The Perfect Day』がやはり素晴らしくて、これを見ると俺はシブゲキで見たフタバのことを思い出して泣いてしまうのだが、そうした物語的な感傷だけではない。それぞれのタップも見事だし、何よりステージ上を、まるでこの世に怖いものなど存在しないかのように自由自在に駆け巡る9人の、街中に幸福を撒き散らすかのように躍動する姿にこそ、涙を流してしまうのである。

俺が彼女たちに強い魅力を感じるのはパフォーマンスが絶対的に美しいからだけではない。彼女たちは、アイドルの価値を証明するためにはあたかもそれが唯一の方法であると言わんばかりにダンスとそれを魅せるための演出というシンプルな要素を真摯に高めていくが、純粋主義的な袋小路に陥ることはなく、あくまでオーディエンスと共犯関係を保ちながら盛り上げることで、楽しみそして楽しませていくことを目的としている。どの辺りがと指摘するのは難しいのだが(レスとか煽りとかはわかりやすいんだけれど多分それだけではない)、あくまで目線が観客に向いている感覚が確かに存在しているように思える。だから我々はハイスキルな彼女たちのパフォーマンスを、ただただ固唾を呑みながら見守るだけでなく、アイドルオタクとしてコールを入れることも出来るだろうし、あるいは彼女たちの動きに自らの体を同期させ一緒に踊ることも出来るのだろう。なんだか彼女たちの作り出すエンターテイメントに参加している実感があって、それは単なる見世物に留まらない、とてもエキサイティングな体験だ。

終わってみればアンコール入れて1時間45分ほどの時間。アイドルのワンマンライブとしてはいささか短めと思われるかもしれないが、いやいや実際に体験すると非常に密度の濃い(TPDはこういった表現をアイドルのライブに使うことの気恥ずかしさを覚えさせないものなのだ)内容で、これ以上でもこれ以下でもありえない理想的な時間だったと言える。場の空気が弛緩してだらけてしまうような瞬間は一度としてなかった。曲間をキックで繋げたり、あるいは衣装替えの時も舞台上の演出を用いることでただ暗転するだけという時間を作らない、ひたすらパフォーマンスを繰り広げていくという形式はオーディエンスの視線をステージに常に集中させ退屈させないのと同時にまた、ぶつ切りとなった感覚を与えることもなく、スタートから最後まで連続性の中でぐいぐいと熱量を上げていく。この連続的な流れに身を委ねると105分などあっという間に過ぎ去ってしまうのである。

そしてこれは特に最終公演で思ったのだが、アンコールのあとのMCもまた見事だった。高嶋さんの「このツアーを見ていない人たちが悔しがるくらい大きなグループになりたい」という言葉に、恥を忍んで言うと夢を感じた。俺はアイドルには、夢を見せてくれる存在であってほしいと思う。夢というのは俺の中では(言語化するのが難しいのだけれど)つまり、別に秋元康的な美辞麗句としての「夢」でも、メンバーが芸能界で成功してどうたらとかでもそういったことでもなくて、彼女たちのライブを見れば世界の最悪なことだったり日常の下らないことが吹っ飛ばされる感覚と地続きのものとして存在するものだ。つまり、このつまらない世の中の何かをぶち破ってくれるという確信だ。「こうあるべき」という理想ともちょっと違っていて、俺たちが勝手に生きて勝手に楽しいことをやってたら次第に世界の幸福の総量みたいなのが上がっていって、少しずつでもこの世の中がより住みやすい方向へ向かっていくんじゃないか?という意味での、まったく根拠の無い希望なのである。というかそういった意味での夢を持たせてくれるに足る痛烈な爽快さというものをステージ上の彼女たちは持っているのだ。困ったことに、アイドルという存在を信じさせてくれてしまうのが東京パフォーマンスドールなのである。

以上、底が抜けたように痛快で熱狂的な105分だった。楽しいだけじゃなくて彼女たちのことをどんどん好きになっていくのがわかる……。不満点といえばオタクとここで披露される楽曲の多くが音源化されていないということなのだが、まあ何にせよ、まだまだこれからなのだろう。秋にはZeppツアーや2ndシングルのリリースイベントが待っている。これからの中で出来る限り、彼女たちのことを見守っていければ俺はそれが本当に嬉しいと思う。