5/26

不気味な虚無そのものの器、キャラクターではなく単にそこにあるものとして立つ前田敦子のきわめて映画的な存在感を再確認させてくれる怪作『Seventh Code』を観たり、素晴らしきポップ・ミュージック"ラブラドール・レトリバー"を幾度と無く耳にしたり、最近資本主義が生み出した怪物としてのアイドル産業にしか作り得ないような美しさを持った作品に触れる機会が多かった。だからこそ、その負の側面として想像出来ないほどにおぞましい事件に触れてしまったことはこの文化の消費者の一人として本当にショックが大きい。胸が痛むどころではない。あってはならないことだ。

犯人の動機についてなど全てが明らかでない今、憶測で物を語るべきでないとはいえ、このような事態に直面して確率論の問題だとかイレギュラーのやったことだなどと言うことが出来なくなってしまった。もっとより根源的な問題があるのではないかと思うし、そうではないようにも思える。ただ一つ言えるのは警備体制を強化して、という対処療法がもちろん必要だし検討されるべきだろう。握手会の中止も考慮に入れるべきなのかもしれない。

ただこの事件に一切関係のない自分が、あるとすれば単なるこの文化の享受者であるというその一点においてだけなのに、なぜここまで落ち着かず辛いのかすらよくわからない。ただ、犯人がどういう動機なのかわからない今だからこそ色々考えてしまった。すると自分の中にああいった攻撃性の裏返しとしてのタナトス欲求が無いのかと少し掘り下げてみると確実に否定することは出来ないことに直面してしまうし、まったく関係の無い存在に対する心配やこの胸のざわつきと、犯人がまったく関係の無い人間に対して凶行に及ぶに至った動機のようなものがまったく異質なものと言える自信もない。こうした圧倒的なこの世界のおぞましさのようなものに触れて認識してしまった今、自分がそのおぞましさの中にいるということが本当に気分が悪い。こういう時に極端な話を持ち出すのは良くない癖だと思うけど、もうほんと今50枚くらい使ってない握手券あるんだけどこれが全部紙切れになってもいい。しかし、そんなことを吐いても一ヶ月もすれば平気で握手に行っている自分が容易に想像出来るわけで。それはやはり否定したい欲求なんだけれど、しかしその欲求だけが自分にとってはアイドルが正しい文化産業であると言えるための根拠だと今は信じたい……。相変わらずとりとめのないことばかり書いていてすいません。

5/23

最近爆音映画祭に通っている。

ラスト・ワルツ

冒頭、"THIS FILM SHOULD BE PLAYED LOUD"という但し書きに導かれて聞こえるビリヤードの快音が最高に気持ち良い。このどこか喜劇的で遊戯性に満ちた音が映画全体を支配しているかのような気分にさせてくれる、そんな音だ。ビリヤードの音でそれだから言わずもがなライブシーンは最高で、巨大な爆音で奏でられる歌心に満ちた演奏はそれだけで十二分にイメージを想起させてくれる。映像より雄弁な音楽もあるということだろうか。目を閉じて音に身体を委ねているだけでロックという音楽がどこから来て、どこへ行くかが語られているかのようだった。

そもそも『ザ・ラスト・ワルツ』はザ・バンドという優れた一つのロックバンドの(ロビー・ロバートソンの言葉を借りれば)「始まりの終わり」についての映画である。と同時に、80年代以降アメリカにおいて産業としてのロックが完全に衰退していゆく、という歴史的事実を踏まえて観ると、これはアメリカが生み出したロックという音楽そのものの「始まりの終わり」の映画でもあるとも言える。だから、マディ・ウォーターズやステイプル・シンガーズといった黒人たちの存在は、純粋に彼らの音楽的豊穣に触れるということのみならずロックという音楽がどこから来たのかを我々に再確認させる意義を持っているし、ラストの祝祭の大団円的だがどこか物悲しい雰囲気は、ザ・バンドという一つのバンドが終わるだけでなく、より大きな歴史の一つの断面に触れているかのようなしめやかで荘厳なものを感じさせる。そんな大きな宴のあとのような感触がありつつもしかし、センチメンタルな雰囲気だけで終わるのではない。エンドロール、5人だけのささやかなワルツは時代が移り変わっても何も変わらないものがあるということを示唆するかのようにもっとも瑞々しい演奏、最高。

ドクター・フィールグッド オイル・シティ・コンフィデンシャル

オリジナルメンバーの中で存命する3人とブリローの妻、母親を中心としたドキュメンタリーで、幼少期からバンドの結成、成功とその終焉を描く。ライブ映像がほとんど残ってないのか使い回されまくる在りし日のバンドの姿やライブシーンよりも、寒々しい空と滔々と燃える炭鉱の炎以外に何もないキャンベイ・アイランド(オイル・シティ)の風景が印象的。彼らがR&Bやブルースに傾倒したのはこの何も無さゆえだと言わんばかりの何も無さ。

しかし『ラスト・ワルツ』もそうだけどバンドが終わる時を描いた映画のあのセンチメンタルな後味というのはなんなんだろうか。若者たちの一つの共同幻想が成立して成功してふとしたきっかけで終わってしまう、その呆気なさがどうしようもなく魅力的に見える。そんな寂寥感がありつつも、現在のウィルコ・ジョンソンが閑散とした街の中、一人でギターをかき鳴らしながら歌うその姿と過去のバンドの映像をオーバーラップさせる演出は非常に良かった。街も時代も変わってしまうけれど何も変わらないものもある、と言わんばかりに当時のように動きまわるウィルコ・ジョンソンの狂気(侠気)にグッと来る。

ビースティ・ボーイズ 撮られっぱなし天国

選ばれたオーディエンス50人が手持ちカメラでビースティ・ボーイズマディソン・スクエア・ガーデン公演を撮りまくるというなんだか思いつきのような作品。とはいえビースティ・ボーイズの素晴らしさとは多分、思いつきを熱意と愛情でそのまま実現してきたところにあるのだということを改めて実感。無様なリズム感を晒しながらも俺たちに出来ることはこれなんだと言わんばかりにヘヴィなギターをサンプルすることで仕上げられた"Licensed to Ill"に心打たれた人間として、この初期衝動に満ちた映像にも同じように感じてしまった。

その思いつきの面白さと同時に、これはビースティ・ボーイズの第二の全盛期が間違いなく"To The 5 Boroughs"期にあったのだということを物語るフィルムでもある。その全盛期の活力を支えているのは、使い古された言葉を用いるなら"ストリート感覚"というものであって、この感覚を強調することこそが911以降のアメリカ、ニューヨークが直面した状況に対してビースティーズが何をすべきかというステートメントでもあった。アンコール後のラストで"Sabotage"をブッシュ大統領に捧げる姿からも当時の彼らが何と闘っていたかは明らかだ。

50人の素人が持ったカメラは好き勝手なものを映していて、それは例えばステージ上の3人だけではなく、踊り狂うオーディエンスだったりトイレに向かう自分だったり、あるいは仲間と勝手にアリーナ席へ侵入しようとする(そして失敗する)姿だったりが捉えられている。エンドロールに至っても楽屋内のメンバーよりも熱狂する彼らの感想(それは映画を観た我々の想いとも共鳴する)にこそフォーカスが向けられている。このように普通のライブドキュメンタリーでは省みられることの少ないオーディエンスの一人一人が、ステージ上のメンバーと同価値のものとしてカメラに収められている。この"自分たちとオーディエンスが地続きであるという確信"に満ちた編集が映画の中心となっていて、それこそが彼らなりの"ストリート感覚"の映像的表現だったのだろう。そのことは"ここにいるみんながスターだ"と声を詰まらせながら語られる終盤のMCでも明らかで、サウンドからもオールドスクールへの回帰が特徴的なこの時代に、素人にカメラを回させるこのフィルムが作られたのは偶然ではないように思える。そして俺はこの時期のビースティーズが特に好きなんだ。感動。

5/12

乃木坂アンダーライブ

渋谷O-East(今はTSUTAYA O-East?どっちにしろ……)で3部制のうち全部を見る。ライブハウスの近距離で、60万枚CDを売っているグループのライブが見れるということでまあ非常に楽しかったです。もしかしたら2012年の年末にZepp Tokyoで見た同じグループのライブより楽しめたかも。セットリストもシングル曲中心でアッパーながらそれぞれの表現を模索している感じがあって、例えば中田花奈さんや市來玲奈さん、永島聖羅さん、斎藤ちはるさんなんかは見ててすごく楽しかった(100%俺の好み)。

ただまあ橋本奈々未さんや白石麻衣さんなどといった超絶美人たちの更にその美人さゆえだけではない凄さというか、単純に言えば華を持った人たちだけが持つ凄さというのもやはりあってそれは誰しもが持つものではないのだなあということも実感した。その片鱗は衛藤美彩さんと伊藤万理華さんはあるような印象を受けたけど、他のメンバーには残念ながらそこまで感じられず。しかしその一事によって劣っているとは思わせないほどの熱量がそこにはあって、しかもそれが直に伝わってくる距離だったのでオールオッケー……などと考えていると自分は(文句を色々言いつつも)乃木坂46というグループが好きなのだなあと恥ずかしい結論に。『君の名は希望』とか本当にすごく良かったです、はい。

ニール・ヤング / ジャーニーズ』

爆音映画祭で。クレイジー・ホースと共にではなく、ギター一本の独り身で舞台へ立つニール・ヤングの佇まいの説得力。その根拠は何なのかということがライブシーンの随所で挟まれるドキュメンタリー・タッチの映像で語られる。

しかし爆音映画祭というイベントにおいて目と耳が行くのはやはりライブシーンであって、ギターの圧倒的轟音が大量のスピーカーから放たれることによって観客を体の底から震わせる。この圧倒的な体験に感動。デカい音を出すことはショボい音を出すことより常に優れているのである。特に髭の一本一本を数えられそうなズームで捉えられたニール・ヤングが身体を揺らしながら歌い、カメラに飛んだ唾を拭く暇も与えられずにひたすら鳴らされ続ける"Hitchhiker"の執拗な轟音とその反復の快楽ときたら……。

それと、「街で見覚えがあるものはすっかり無くなってしまった。だが心に残り続けている。……亡くなった友人たちもそうだ。」という旨をニール・ヤングがぼそっと漏らす下りには思わず涙。

4/21

周りの人がなんだかみんな大人に見える。年齢からすれば私も早く色々なことに折り合いをつけていかなければいけないのだが、しかし私は自分より年上なのに子供な人(というか、そう見える人)を見つけては安心して、今日も幼児的な振る舞いをしてしまうのであった……。アイドル、最高!俺は最低!

ロボコップ

をギリギリ駆け込みで見てきたのであった。MMシネマズみなとみらいにて。グロい映像とアメリカ人の神経を逆なでするような演出と構成はヴァーホーヴェンイズムを継承していると言えるのでは。徹底したカタルシスの無さと合わせて全編に漂うイヤ~な感じはなかなか良い。あの重みも何もあったもんじゃないようなアクションの不得手はちょっとヒドすぎるなあとは思いますが(ああいうFPSみたいなアクションは流行りなんでしょうけど好きになれない)。あとベーコンのルシアン・フロイドの3つの習作』が社長室に飾ってあったのと前半の展開からもっとアート風というか、人間の精神というのは……みたいな哲学的な話になっていくのかと思ったら、そんなことはまるでなく割りと小さな話に収まってしまったのが肩透かし感。ラストのサミュエルLジャクソンのマザーファッカーと後に流れるクラッシュの皮肉で痛快な響きがサイコーで、それだけで全部許せる気がする。

4/15

乃木坂アンダーライブ

ちょっと感動してしまうくらい良かったです。なんでだろうなーと考えると、単に好きなメンバーが全員いたし久しぶりに見れたからっていうのが一番の要素なのかもしれないが、しかしそれだけで言及を終わらせることも出来ない類の良さがあったと思う。言語化出来ない魅力が果たして何なのかは相変わらずわからない。根本的なところで音楽(付言しておくと、生歌も選曲も良かった)や踊りとかは単なる媒介であってそこと関係ない部分に感動しているからなんだろうけれど、しかしそれは単なるフェティシズムなのではないかという不安があるし、何より感じた魅力をアイドルという存在それ自体が持つ魅力というものに帰着させられるほど、アイドルという存在を(映画や音楽のようには)信じ切ることが自分にはまだ出来ない。まあこういう話になると乃木坂関係ないんですけど。何にせよ良かったという思いは本当純粋にライブとしては一昨年のZepp以来楽しかったような気がする。それは彼女らの持つ熱気と意気込みというものに触れたから、ということにしておきたい。あと自分がこういう主流の中の傍流、のような存在にロマンを感じてしまう人間であるということを再確認した。

ところで楽しかった代償として楽天カード会員限定のアイドルライブというまったくゾッとしないイベントに参加してしまった負い目というものが生じてしまったのですが、それはこれから先抱えて生きていきます。

4/12

『怪人マブゼ博士』(1960)

オーディトリウム渋谷で。ラングはポツポツとしか見たことがない私が言うのもなんですが、とてもラングらしい(わけわからん)作品だったと言えるのではないでしょうか。ここで「ラングらしい」というのはナチスに追われる前の彼がドイツで撮ったいわゆる表現主義的な映像そのものの凄まじさで観客を圧倒するそれではなく、登場人物のヒューマニティーの欠如(全員ひとでなし)や濃密な密度の演出、そして「監視と管理」という主題などなどのことを言いたいと思います。それが全部あります(なんという循環論法)。

さて、明らかな低予算映画であり、一見何の事はないB級ノワールでありながら名匠フリッツ・ラングの遺作であるという微妙な立ち位置の(笑)『怪人マブゼ博士』は、傑作だと思います。

この作品は明確な視点を設定せず99分の間に目まぐるしく語り手が変わり、かつその語り手それぞれの本当の目的が終盤まで明らかにされないという非常にわかりにくい構成であるのですが、映像に込められた凄まじい密度とバラバラの視点からなるシーンの1個1個をきわめてテンポ良く繋がれていくことによって、映画は説明不足という印象を与えることなくグイグイと推進していきます。まず秀逸だと思ったのはその繋ぎ方です。例えばあるシークエンスにおいては登場人物の刑事がパイプを灰皿に「コン、コン」とぶつけてシーンが終わるかと思えば、それと極めて似た「コン、コン」というドアのノック音が媒介となり次のシーンに突入するという演出が取られます。この音の使い方の華麗さにはシビれました。映画的なリズム、テンポの持続として非常にわかりやすい。他にもモノローグで終わりそのモノローグを繋げたまま、モノローグで語られる人物のクローズアップから次のシーンが始まるという演出が多用されたり、とにかく映像と映像の繋ぎ目に対する執着のようなものを感じました。その編集の心地よさが登場人物の視点というものを超越した映像全体としての語りのうねりのようなものとして登場することで、我々観客はサスペンスを続けるための疑問(ドクトル・マブゼの正体とは?そもそもドクトル・マブゼは生きているのか?)が解消されないまま、映画が大富豪と自殺志願者の女とのロマンス的展開に発展していてもどこか安心して見ていられるのです。この映画は主人公らしい主人公というのは設定されず、また前述した通り登場人物はほとんどの場合目的を隠し持っていて、観客は映像の密度と情報の不足を同時に受け入れる必要があるのですが、不思議と置いてけぼりにされているような感覚はないのです。そこが魅力的だと思います。

また、魅力的な娯楽作であるからといってそこだけを評価するのは勿体無いようなテーマ性というものもこの作品からは感じられます。これは上映後のトークショーで言っていたことと重なるのですが、ホテル中に監視カメラが張り巡らされているという設定はなるほど窃視的ではあります。が、ラングのそれではヒッチコックのそれのように覗き見の快楽と結び付いているわけではありません。むしろこのホテルがゲシュタポによって作られたものであるという設定からも明らかであるように、ここでの「監視」とはナチス的な「管理」と地続きなものであり、戦後20年が経とうとしている当時のドイツでもナチス的な傾向は払拭されていないぞ、とこのアメリカ帰りの監督は言うのです(笑)。公開当時は批評家に酷評されたようですが、しかしこうした問題提起をしたラングの先見性は、もはや監視社会どころかあたかも牢獄であるかのような現在においてもなお通用するどころか、公開当時以上に迫真のものとして我々に迫ってくるのではないでしょうか。

忘れてはならないのがラストのアクションにおける心躍るB級感です。ホテル内で犬に噛み付かれる捜査官のカットからジャンプ・カット的に訪れる外からホテルへの唐突なマシンガン連射、デカい銃撃音と共にバタバタと倒れていく警察官、死体を盾にする(笑)インターポール捜査官と犯罪者との銃撃戦、そしてアメリカ車を駆けるマブゼ博士一味と刑事たちの追跡劇。私の好きな作品である『復讐は俺に任せろ』でもそうだったのですが、ラング監督の撮るB級ノワールは観客へのサービスなのでしょうか、なんだか少年漫画的に心踊る展開が用意されていることが多い気がします。しかもそれが映像的にはどこかちゃちさが残っていて、だが逆にケレン味になっていることで活劇として異様に格好良いものになっているのです。『メトロポリス』などの超大作を撮った監督とは思えない、予算の範囲内の(笑)通俗的な格好良さといいますか、とにかく愛せます。

映像のテンポの良さ・小気味良さと、「一つの疑問が解決したと思ったらすでに新たな疑問が現れ、すでにそれに囚われている」という構成、それを補強するかのように「自らの行動はすべて予測されている」という感覚を与え続けるカメラによる監視・予知能力者の存在による居心地の悪さとが併存しながら、猛烈なスピードの演出で突っ走っていき、ラストの活劇に繋がっていく流れは見事としか言いようがありません。そしてそれは、ラングの「監視と管理」という主題を実に恐ろしく表現しているのです。また、登場人物の重層的な設定(予知能力者かと思えば…であり、保険屋かと思えば…であり、ヒロインかと思えば…)と決着が見えないまま進行していく現実感の無さはまさに映画的であるといえ、老いた名匠フリッツ・ラング監督の撮るショット一つ一つにほとばしる老練と無縁の才気と相まって、そこには映画でしか成し得ないものが存在していたと思います。遺作に相応しい風格や威厳よりも、もっと撮って欲しかったという素直な感想が先走るような魅力的な作品でした。

4/11

Bob Dylan

を見に行った。9日にDiverCity Tokyoで。何回も来ているはずなのにまたZepp TokyoとDiverCity Tokyoを間違えてしまった…。

話には聞いていたが、基本的には『Love and Theft』以降の曲を中心としたアメリカン・ルーツ・ミュージック。"Tangled Up In Blue"や"Blowin' in the Wind"などもやっていたが、どれも原曲を留めないほどアレンジしていて往年のヒット曲を回顧するといった雰囲気は皆無。歌のフレーズから「あ、この曲をやっているんだ」とわかる感じ。レイドバックしながらも正確無比なバックバンドは確固たる一つのイメージを作っていくかのように音を置いていき、そのアンサンブルの上でディランはしわがれた声で歌なのか呟きなのかぼやきなのか、言葉を吐いていく。ブルースであり、フォークであり、カントリーでもある。ディランが鍵盤を強く叩けば、ロックンロールの萌芽を見せたりもする。こういう演奏での音楽ってある種、観客に緊張を求めないものであってともすれば弛緩してしまいかねないとも思えるが、ここには一つ一つの言葉に耳を傾けさせる説得力がある。それが何に起因するのか、正直言ってよくわからない……。ギターも持たず、メロディらしいメロディを歌うわけでもないのにこの圧倒的音楽的な豊穣さに触れる感覚。ただ、豊かさだけではなくどろっとした黒い何か深淵なものもこの歌は孕んでいるように思える。50分×2部を貫いているのは禍々しさと豊かさが素知らぬ顔で同居したアメリカン・ルーツ・ミュージックの持つ緊張感。

が、このルーツ・ミュージックへの傾倒を、"老いたミュージシャンの円熟の境地"などと一言で表現するのは避けるべきだろう。今のディランの老練さは、フォークやロックなどという便宜上の分類分けによるわかりやすさを避け続けてきた彼の延長線上にあるのではないか。ウディ・ガスリーを範として奥深き音楽の真髄のようなものを探求してきた彼の集大成のようにも思えるが、そうではないようにも思える。なぜならジョニー・キャッシュと共にカントリーを歌ったかと思えば「プロテスト・ソング」を歌うし、ゴスペルを歌い神に仕えたかと思えば返す刀であっさりと宗旨替えしてしまうのがディランだったはずで、そう考えると今の音楽性もそんな男の探求の一つの形にすぎず、アメリカン・ルーツ・ミュージックという形式ですらあっさりと捨ててしまうのではないか。ジャンルというものは究極的に彼の前では意味がなく、その奥に潜む人間性への探求こそが目的であるような……。

いや、自分には持て余すようなデカい話しになってしまった。少なくともディランはディランとして生きてきたという重みを感じるステージでした。あとミーハーで申し訳ないんですけれど、眼光の鋭さとか横顔、吹くハーモニカの音とかは(記録映像で見る)昔の姿とまったく変わっていないってところになんだか感動してしまった。本当に格好良かったな。