6/26

アイドルでなくなってしまったアイドルについて何も言わないこと以外に誠実な態度で接する方法というのは存在するのだろうか。好きだったアイドルが去ってしまうことについて、何かを誠実に語ったりせめて恥ずかしくないことを言おうと思ったりもするのだけれど、どう考えても何をどうしても、言った後に恥ずかしくならない言葉というものが思い浮かばない。昔は一生懸命何かを書こうとしてたりもしたけど、結局単なる自分語りになってしまう恥ずかしさから逃れることが出来ないというか……。

上半期ベスト

なぜ我々はランキング作りをやめることが出来ないのだろう。どうせ明日になったらすべて変わってるのに……ということで上半期のとりあえずのベスト・アルバム10枚。コンピや再発は除く。


銀杏BOYZ / 光のなかに立っていてね
・Kassem Mosse / Workshop 19
シャムキャッツ / After Hours
・Wen / Signals
・YG / My Krazy Life
Moodymann / Moodymann
Pharrell Williams / G I R L
・Hercules & Love Affair / The Feast of the Broken Heart
坂本慎太郎 / ナマで踊ろう
・Max Graef / Rivers Of The Red Planet

 

って感じでしょうか。相変わらず統一感が無いけれどまあ仕方がない。音に対する新たな探求の結果を見せながらリスナーへの目配せを忘れることはないという意味でポップな作品が好きです。はい。

また観てきた

唐突だが7,000円という金額が自分にとってどれほど価値があるものかと言えば、まず中古のCDを買いにディスクユニオンへ行けば気になっていたアーティストのカタログは大抵集めることが出来るだろうし、タワレコに行けば時代の音というものをひと通りなぞるのに足る金額だ。シネコンに行けば4本新作映画を見られる。名画座に行けば10本くらい素晴らしい作品を見られるだろう。ある作家の特集上映をコンプリートすることだって可能だ。東京は本当に良い街だ。また、気合の入った専門書や単行本を2冊ほど買うことも出来るだろうし、前から欲しかった文庫本や新書をまとめて買うことも出来る。ランチをいつもより奮発して一週間過ごせるし、友人たちと豪勢に食べて飲んで遊んでも、俺のちっぽけな生活水準からすれば十分お釣りが来る金額だ。いやー凄い。

さて、そんな俺にとっては大金であるところの7,000円を費やして再び16人のプリンシパルtroisを見に行った。今回の第一幕はこの前観劇した際の、目に見えて弛緩してダラダラとした雰囲気と物真似の一発フレーズで笑いを取ろうとする行為が減っていて随分見やすくなっていた。正直言ってそれだけで良いなと思ってしまった。これは松井玲奈さんが参加していたことが影響しているのだろうか。だとしたら凄い。あとは伊藤万理華さんが「まりっか17'」を歌ってるのを見れたのは嬉しかったし、松井玲奈さんと中田花奈さんがゲキカラの話をしていて個人的にアガった。皆かわいいからそこにいて演技をしたりコントをしたりしているだけで十分満足という意見に納得出来ないこともない。

しかし何度見ても第二幕はやはり受け入れられなかった。どこが気に入らないかは前の記事に随分書いたのもあるので、大上段の話を展開させて申し訳ないのだが、まあしたいので大上段の話を展開させていく。

俺は観客という存在を軽視し、"テレビ的なお約束"を裏切ることとなあなあの雰囲気を作り出すことそれのみによって笑いを取ろうとする舞台や映画表現を心の底から軽蔑する。だってそんなことをやってる人間が興行的にでも批評的にでも"正しい"ということにされてしまえば、雰囲気や予定調和に逃げずに誠実に面白いもの、新たなものを作り出そうという人々はバカらしくなってしまうだろう。その結果世の中はどんどんどんどんつまらなくなっていく。ヒマになってしまう。それはとても困る。

ところで、つまらなくなっていくというのは具体的には、複雑で豊かな感情が渦巻く表現というのが少なくなっていき、説明的で「悲しい」だとか「楽しい」だとか単一の感情しか存在しないし与えてもくれない表現が増えることをここでは言う。

悪魔のいけにえ」というホラー映画がある。堀未央奈さんのフェイバリット・ムービーらしいが、俺もラストシーンが大好きで、それを観るために家で何度も繰り返し再生している。あのラストが何故素晴らしいかと言えば、それは複雑な感情を我々に想起させるからだ。鳴り響くチェーンソーの轟音と舞うレザーフェイスを見ると、「悲しい」とか「怖い」とか「安心した」とかあるいは「美しい」とか、とにかく様々な感情の断片が混ざり合い、その結果自分でもどうにも説明することが出来ない、言葉として表すことがまったく不可能な感情が生まれる。俺はそれを豊かな経験だと思うし、肯定する。

ここが笑う所ですよ、という雰囲気を作り出し、そのための記号をポイポイと放り込み、観客がそれに対応して笑う。俺はこれを単純で、つまらない表現が生み出すつまらない経験だと思う。ホント、勘弁して欲しい。つるっつるで何も創意工夫がなく、「ノリ」とか「雰囲気」で誤魔化そうとする表現はつまらない。

もちろん、こうした連中の作品は俺にとって何の必要もない。世の中には過去の偉大なる人々が自分の才能と努力を注ぎ込んでようやく作り上げた数々の素晴らしい作品が生涯で見きれないほど存在しているし、言葉や国は違っても何か面白いものを作り出してやろうとする人々が今もたくさんいる。テレビ的な作品を観るのはそれが好きな人たちに任せて、俺はそっちを見ていればいいのかもしれない。

でも俺は、"アイドル"という今この時代のこの国に今実際に生きている、めちゃくちゃかわいくて魅力的な女たちが、作家の創意に満ちた表現と手を組み、舞台や映画という場で暴れまくる表現を心の底から望んでいる。好きなものと好きなものが合わさればもっと好きになるに決まっていると思う。見たくて見たくて仕方がない。だから、大金を費やして手抜きで作る連中がのさばり、舞台や映画という場でアイドルを手掛けていると本当に困る。実害がある。これは別に福田雄一氏に限った話ではない(そもそも彼はTVバラエティを作る才能はあるし、それは面白いとも思う)。

なので、こうした単純極まりない舞台や映像作品が少しでも減ればいいなと思うし、こんな酷いものがありますということは誰かに伝わってなんとかしてほしいなーとも思う。心の底から思うのだが、俺はこの世の中が少しでも面白い世界になってほしい。実際はこの文章は誰にも見られもしないし、誰かに影響を与えることも出来ないだろう。それでもとにかく、見てしまった者の責務として思ったことを言わなければどうにもならない。そういうわけでまたダラダラと愚痴と諦念とちょっとの期待が混じった文章を書いているのである……。

アイドルファン向けだからだとか対象年齢が若いからだとかいう理由で不誠実な作品が許されるということはありえないと信じる理由について

最近『LEGOムービー』という映画を観た。これはタイトルの通り、おもちゃのレゴを題材とした映画だ。驚くべきことに映画のほとんどがレゴ(シャワーの水や爆発の煙まで!)で形成されているという、まるでアイディア一発を偏執的なまでの創造力で映画としていったかのようなまあなんというか凄いものだった。フィル・ロード&クリス・ミラー監督の過去作がお好きな方はもちろん、下記で述べる理由によってエドガー・ライト監督作がフェイバリットだという方々にも推薦したい。

この映画の対象年齢は低い。少なくとも世間的にはいわゆる"子ども向けの映画"なのだろう。実際に俺が見に行った時も観客は小さな子ども連れの親子がほとんどで俺のような映画ファン(a.k.a. キモヲタ)や、"毎週シネマハスラーを聞き、毎月映画秘宝を読みます"みたいな人はかなり少なかった。というか俺くらいしか一人で見てる人はいなくてちょっと恥ずかしかった。いや、それはいい。しかし、この映画は(重要な要素のネタバレになるのでぼやかす形で言う)後半、"レゴというおもちゃ"にまつわる我々が普段持っている視点を重層的なものとして映画内に用意し、メタ的に対立させ、物語へ絡ませることにより、きわめて真摯な表現足りえる完成度を有するものとなっていたのである。ただ単に映像的なスペクタルで観客を驚かせることに留まらず、「レゴを使って映画を撮る」という行為に対して誠実な問い掛けとそれに対する一つの答えを提示していた。そしてその答えはレゴというおもちゃに対する暖かな目線から生まれたものであり、作り手の愛情とそれを形にするプロフェッショナルたちの信念が込められていた。そこに俺は感動してしまったのである。

さて、自分はまあいいおっさんなのでとても楽しめたのだが、観ている間思ったのは「後半の流れに子どもたちはついていけるのだろうか?」という事である。スムースな編集とメタ視点の絡ませ方がうまく、映像表現として説話機能が不十分ということはないものの、そもそもこうした重層的で少し複雑な表現(しかも物語の世界観を壊しかねないもの)というものが幼い子どもたちに受け入れられるのかちょっと不安になってしまったのだ。

しかしその懸念はまるで杞憂だったことを認識する。上映終了後、映画館に照明が灯りそこら中から聞こえたのは他でもない子どもたちが興奮気味に親に語る「おもしろかった!」「楽しかった!」の声だ。中には「感動した」という幼い声もあったのを鮮烈に覚えている。

対象年齢が、だとかアイドルオタク向けだから、という理由を付ければ不誠実で予定調和的な語りをしていいのだろうか。アッパラパーベロベロバーみたいな幼児的な笑いをもたらすだけの存在をコメディと称することが許されるのだろうか。俺は、断じて違うと思う。子ども向けだからこそ子どもの想像力は最低限上回ってなければならないし、コメディだからこそ我々の考える「笑い」の常識というのを上回る予測不可能な体験でなければならない。アイドルオタク向けだからこそ、アイドルの魅力を十二分に引き出すのみならず、アイドルがかわいい以上の要素を突き付けなければいけない。子どもだろうといい年こいたアイドルオタクだろうと、不誠実な語りを平気で許容する連中が想定する「愚かな観客」など実際に存在するのか俺にとっては大いに疑わしい。仮にわからない表現を突きつけられたとしても、それが良質なものであるならば人々は何故わからなかったのか自分なりに考察することになるものだ。複雑な表現はまた、作品を介して他者と語り合う契機ともなるだろう。そして、それはとても豊かな時間だと考える。

そもそも、普段文化に興味が無い人々が集まりやすいからこそ誠実な語りを行うことで、異なる世代や異なるトライブの人々を文化の深淵でわけのわからない世界へと引きずり込んでしまうような作品こそがこのような場では求められるのではないか。そうした他者へのアプローチを行う努力を放棄し内輪向けの安易な方向へと転がってゆく表現を肯定することは、様々な異なる人々が混ざり合う観客という存在への冒涜であり、多様性を排除する乱暴さに満ちた行いだ。それに加担することは少なくとも俺は遠慮したい。

「16人のプリンシパルtrois」を観てきた

16人のプリンシパルtrois

6/10に、友人と乃木坂46が行う舞台を見に行った。その名も「16人のプリンシパルtrois」という。ひどかった。

期待していなかったといえば嘘になるのだろう。僕は同じCDを何十枚と買いまくりライブには出来るだけ向かうような紛れもない乃木坂46シンパである。しかしそれより何より、去年行われた「16人のプリンシパルdeux」が『ガールズルール』以降のすべての楽曲リリースに対する不満を差し引いても余りある、豊かで感動的な体験だったからだ。そしてそれは「16人のプリンシパルdeux」が決して演技のプロフェッショナルではない、未だ途上であるアイドルという存在が演劇をするにあたっての弱みを美しい魅力として変換することに成功していたからだと思う。

deuxにおける第一幕のオーディションは「小劇団の劇団員とそれを見守るプロの演出家」という設定があった。それは舞台の上で実際に苦闘するアイドルの姿と重なることで、重層的な面白さを生み出していたと思う。舞台の上で提示されたお題をやってのけようとする"劇団員"たちの真摯な試行錯誤の過程はそれだけ取ってみれば稚拙だったり、何をやっているのかすらわからず、エンターテイメントとしては成立していなかったのかもしれない。しかしながら彼女たちは単なる劇団員ではなく、アイドルなのだ。アイドルが戸惑いながらも挑戦していく姿はそれだけでとても美しいし、またそのただただひたむきな態度にも強く胸を打たれた。

何故オーディションというあくまでも「過程」を舞台としてそれが感動を生むのかという理由、それをdeuxは見事に証明していた。それは彼女たちが紛れもない「アイドルだから」なのだ。演技は稚拙かもしれない、しかしそれでも、それだからこそ観客に得体の知れない感動を与える存在、それこそがアイドルだ、と言わんばかりの強烈な説得力をもって我々に迫ってくるものそれがdeuxの第一幕だった。

第二幕はアイドルである彼女たちが役者として演劇を演じることになる。驚いたのはそこでの彼女たちがきわめて堂々としていて、第一幕での稚拙さをまったく見せていなかったことだ。恐らく何度も脚本を読み込み、入念に練習を重ねてきたのだろう。それは彼女たちが第一幕では「あえて」持たざる者を演じていたのかもしれないという錯覚すら感じさせる。

そして舞台装置を利用しながら左右奥底を縦横無尽に動き回る演者たちの痛快な動きそのものと舞台に投射される創意に満ちた映像、それに乃木坂46の楽曲が有機的に組み合わされることにより、(例えば僕が普段親しんでいる映画などではなく)舞台でなければ創出し得ない何らかというものに触れた感触があった。初めて観た時の高まり、顔が赤くなって鳥肌が立ちまくりそれでも舞台のどこから目を離すことも出来ないあの高揚感は今も忘れられない。

 

さて、結論から言うと今回の「16人のプリンシパルtrois」はそうした去年の舞台に対する我々の信頼をぶち壊す最低のものだった。それだけではなく「アイドルがやってアイドルオタクが見に来るものだったらこんなもんでしょ」などという観客や舞台ひいてはこの世の文化すべてを冒涜するナメた作りであり、その代わりに福田雄一の脚本/演出家としてのただただ肥大化した自尊心だけを後生大事に抱え持つ痛々しさと謙虚さというものをあまりに欠いた傲慢と怠惰だけが目につく、それは文化というにはあまりに貧しい代物だった。

第一幕

これは昨年と同じく公開オーディションだ。クジを引いてコントを選択し、それを競合者と一緒に台本片手に演じる。

大きな問題として、ここで重視されているのが基本的に"与えられた台本をどう読むか"という視点に限られてしまっているということが挙げられる。当然ながら笑いを生み出すというのにも様々な手法があって、それは例えば脚本の妙であったり、その仕草や身体を使った表現をもって笑わせることもある。表情や視線により違和感を少しずつ出していくコメディもあるだろう。その中で福田雄一はその脚本に書いてあること自体の面白さと会話のやりとりだけで笑わせようとすることを目指しているようだ。基本的に動きや舞台の空間を使った演出も、表情や視線からアプローチしていくような演出も観ることが出来なかった。また、演者たちは台本片手に演じるわけでボディ・ランゲージ的な表現もかなり抑制されていたように見えた。だからここでは脚本がどうか、脚本がどう読まれるかという部分だけで笑いを生み出さなければならない。ただしこの演劇の構造上、同じ脚本を何回も利用するという場面は一日のうちでも何回も見られたし、なおかつこの興行の性質上複数回観ることになる観客も多いわけで、実質的に脚本に書いてある面白さはかなりの部分脱臼してしまっていると言わざるを得ない(というか脚本におけるそもそも笑いを生み出すメソッドとして基本的に舞台を活かしていない荒唐無稽なボケ→大声でツッコミという手法が多用されそれがほぼ全てという脚本の出来、コメディセンスにはきわめて落胆させられたがこれは好みの問題だろうから捨て置く)。だから、自然と脚本がどう読まれるかという点にのみフォーカスされることになる。

しかし動きや台詞が抑制されてしまった結果、アイドルが演劇するにあたって発揮されるべき自らの独創性というのは極めて限られたものになってしまっていた。具体的には声色や物真似だ。ただし、残念ながらそれは必然性のないボケが繰り返される脚本と相まってまったく焦点を欠いた単なる見世物になってしまっていた。

今回の脚本は致命的な欠陥を有していて、それは登場人物が"普通の会話をしている中でその場面から連想される形でボケを入れ込む"のではなく、"ボケを繋げることによって会話の体を為そうとしている"ことに起因する。これは端から見れば単なる狂人しかいないように見えてしまうのだ。そんな中でボケとツッコミというメソッドを繰り返す姿は分裂的としか言い様がない。この一貫性のなさをどうにかカバーしようとアイドルたちは過剰な声色を用いたりあるいは物真似をすることによって何らかの主体を確立しようとするのだが、これははっきり言って異常者勢揃い大会のようだった。去年あれほど真摯でひたむきで、美しかった彼女たちがあたかもその異常性を競い合うような姿は無残としか言いようがなく、どうしようもなく悲しかった。心の底から悲しかった。福田雄一を許してはいけないと思う。いや、メンバーは悪くない。悪いのは福田雄一とそれがこの世の中でのさばるのを許してきた我々すべての観客なのだから。

 

そんなあたかも動物園のような惨状を呈していた舞台の中で唯一、キャラ演技をしながら一発ギャグに留まることのない全体を見通したユーモアというものを考えていたのは2期生の新内眞衣さんだったと思う。

「タクシー」というお題では、運転手とその乗客の2人による密室劇的な舞台が用意される。その閉じられた場面の性質上基本的に座っている2人が動くことはないため、まさに会話それ自体の面白さや"間"というものに大きく左右される題目だった。運転手を演じる齋藤飛鳥さんと新内眞衣さんの2人で行われた。

齋藤飛鳥さんは基本的に物真似(芦田愛菜という人の物真似らしいです)を繰り返し、もちろんそのおかしさというものはあるのだろうけれど、台詞を言う前におどけた話し方でフレーズをかます、というまあそれだけで、一発ギャグを引き伸ばしたその冗長さから逃れることが出来ていなかった。これは齋藤飛鳥さんだけが陥っていたのではなく、第二幕で「物真似」でキャラ設定を行ったほとんどがこの冗長さと共にいたと思う。

それに対して新内眞衣さんが面白いのは「飲み会帰りで気分の悪い乗客」という少なくとも一発ギャグ的な笑いではなく、その後の様々なやり取りに対してもこのキャラをベースに笑いを展開していくことが可能な設定を自分に課していた点にある。同時にOLである新内眞衣さんがアイドルとしての自分自身の"キャラ"を活かした設定でもあるわけで、そこが秀逸だ。最後のオチ(クソつまらないから言ってしまうが、目的地が新宿であるのに新橋に着いてしまうというもの)に対して、新内眞衣さんは「しょうがない、飲みに行こう!」とこの設定ならではの返しをし、それで舞台を締める。これはとても知的で、ああ彼女はこれを見据えてこのキャラを演じていたのかという納得感がある。そして脚本上の弱点であるあまりに必然性の無い荒唐無稽さをカバーすることにも成功している。大袈裟な一発だけのキャラを背負わず台本を少しずつ自分の作ったキャラに馴染ませていくというその姿勢は見事だったと言いたい。クイーンオブコント、というその日のうちのMVPを選出する枠があるのだが、それは迷うこと無く新内眞衣さんに投票させてもらった。

西野七瀬さんもなかなか良かった。彼女が挑戦していたのは4人組で「結婚を控えている女性とそれを祝福するメッセージを言う職場の同僚3人」というコント。このコントは会社の同僚たちによるメッセージが読まれるというシーンであり、最初は普通のものなのだが次第に内容が「冷蔵庫の中で牛乳を放置しっぱなし」だとか終いには「会社の金を横領した」という不穏なものになっていき、しかしながら祝福するムードは変わらないというそうしたおかしさを目指すものだった。ここで西野七瀬さんは結婚を控えている女性を演じていたのだが、台本の都合上、彼女は次々と暴かれるその恐ろしい側面について「いや~」「それは言わへん約束でしょ~」などと返すにすぎず、何か面白い発言が用意されているわけではない。

しかしながら、過激でウケ狙いの台本の言葉それ自体よりも西野七瀬さんがキャラの恐ろしい側面を暴かれていきながら、あのニヘラニヘラした感じで切り抜けていく演技をしていくそれ自体の方が圧倒的に面白いし説得力があるのだ。それはこのフニャフニャした可愛らしさがまさに西野七瀬さん本人の魅力であり、どんなに腹黒い事実を暴露されてもその可愛らしさで切り抜けていく姿がめちゃくちゃリアル(実際に腹黒いって意味じゃなくて、実際に腹黒くても西野七瀬さんなら男も女も、俺も君も、誰もが許してしまうだろうって感じの意味)だったからのような気がする。そういう重層的な面白さを意図してか意図せずか見せていて魅力的だった。

あとは井上小百合さんも自らの特権的な舞台経験を活かしてか(恐らく脚本では指定されていない)"動き"という観念による笑いを恐らく唯一舞台の中に持ち込んでいた。一々動きが大仰で、飛び跳ねたり、左右に移動したりしていた。周りに動きがほとんど無い中で、こういう芝居を観るとなんだかそれだけでウキウキしてしまう。

あと米徳京花ちゃんも一生懸命に頑張っててかわいかったが、まあしかし、集計結果としてはこの4人は全員落選してしまうのである……。

第二幕

第一幕を経て、集計が終わって少しすると第二幕が始まる。福田雄一の脚本/演出による1時間ほどのコメディだ。去年同様、アイドルたちの演技は基本的には良かった。今回の舞台における救いがあるとすればそれだ。台詞が飛んだり、噛んだりというところで失敗するという場面も確かにあったが、それを協力しながらお互いカバーし、何とか巻き返そうとする姿は今回福田雄一の意図した脚本/演出その全てを合算したものより圧倒的に美しく面白くハラハラして感動的だった。

そもそも第二幕における演出面の問題としてもっとも致命的なのも、第一幕と同じで魅力的な舞台装置やワクワクするような動きの欠如である。背景として"ここがどこであるか"などという説明的な役割を果たすに過ぎないあまりに貧しいセットはこの劇が舞台である必然性など何ら証明しようともしない怠慢なものであるし、そんなショボいセットの前で女優たちは一向に動こうせず(そういう演出だから仕方ない)、ただただ突っ立ったまま台詞を喋る。巨大な舞台上に存在する女優たちの現前性のようなものはまったく感じられない。そもそもアイドルという実際にそこに存在すること自体何よりも価値がある存在を何故か動かせようとせず、その身体的魅力を一向に魅せようとしないのは演出における愚鈍とも言えるほど大きなミスなのではないかと思った。

音楽の使い方もまったく魅力的ではなかった。第二幕では歌を流しそれに乗ってアイドルたちが踊るというシーンがいくつかある。しかしそれは普段ライブで彼女たちが行うダンスをそのまま舞台上でやってみせたものでしかないのだ。最低のセンスによるユーモアでダンスがヘロヘロになってしまう、というシーンがあるにはあるがそれだって舞台の有機的な面白さとは到底言えずただその場しのぎの笑いにすぎない。そもそも歌を流してアイドルが踊るというのはそれだけで価値があり、最高のものなのだが、その魅力をそのまま舞台で披露しても何の面白みもない。それはまったく想定内の面白みであり、わざわざ舞台で行うのであれば何らかの創意工夫が混ぜられるべきだろう。deuxではそれがあったはずだ。今回はそれがない。

なら脚本で魅せてくれるのか、ギャグが面白いのかと言うと案の定そうではない。その機能を援用するという意味ではまったく無くただ印象的な名前を散りばめるにすぎない、安易という以外の形容が見当たらないパロディ(しかもその元ネタはワンピースやガンダム、パズドラなどといったもの。同じものを愛する同志に対する暖かい目配せのようなものすら存在しない)が多用されていることが象徴的なことだと思う。つまりこの脚本は面白い(とされている)単語や一発のハッタリだけで笑わそうとするに過ぎず、会話のやり取りによっておかしみを生み出そうとするタイプのユーモアはほとんど用いられていない。それは単発的な笑いを生み出すかもしれないが、ダイナミズムや知的なユーモアというものをまったく欠いた作品としてお粗末という評価を免れられない性質のものであった。

つまり、この舞台においては重層的な説話も自分の作家性を持ち込んだ表現というのも一切存在しない。面白"そうな"言葉をただ連発し、それを繋げて舞台の形式だけ整えていくがそこには舞台ならではの面白さや演出的な凄みもまったくなく、メンバーが何か喋っているそのことだけが面白いというまさに学芸会のまね事という表現が相応しい作品に仕上がっているのである。

 そんな愚かな第二幕がようやく幕を閉じたかと思うとエンドロールで流されるのはメンバーたちが練習をしている姿の映像である。はあ?と思った。"僕の演劇は「頑張らない演劇」ですが実は彼女たちは「頑張って」真剣に取り組んでます、感動的でしょ?"とでも言いたいのだろうか。最低の表現としか言い様がない、開いた口が塞がらなかった。

思ったこと

そもそもコントで笑わせるということは弛緩した雰囲気や馴れ合いの中から生まれる同情的な笑いを引き出すことでは絶対に無いはずだ。それは他人の常識を揺るがし世間というものに洒脱に挑戦する正しく力強い文化的営みであるはずだと俺は信じてきた。しかしそんな確信など根本的に無意味で、ただなんとなくの雰囲気で笑い、ダラダラと予定調和的なものだけで笑うことだけが"正しい"のだという世界を突きつけられたような感覚があった。

第二幕でこんなシーンがある。主人公が護衛の部下を選出するという場面で、ある部下が自分のアピールとして「ジャッキー・チェンブルース・リーが好き、最近ではクローズ/zeroが好き(だけど自分の喧嘩が強いわけじゃない)」というボケをかまし、それに対して別のキャラが「映画見てるだけじゃ何の役にも立たない!」とツッコみをするやり取りをする。まさにその通り、映画や文化を観ていてもそれは何の役にも立ちはしないのだろう。大衆的娯楽や文化というものを端から端までナメきった不誠実さに満ちた演劇というのもおこがましい存在が、赤坂アクトシアターという決して狭くない場を連日満員にしているこの現実に対して、我々は何か抗うことすら出来ないのだから。

ただ自分は本当に無力だということを認識しながら、それでもこれだけは言いたい。舞台や映画というもの、それはもはや伝統的とも言え、その歴史において数々の言葉に出来ないエモーションを観客の中に生み出させてきた産業だ。これを用いながら、驚嘆するほどに低いクオリティの出し物を我々に提示し、その言い訳として「あえて」だとか「逆に」という言葉を濫用する。「このショボさが逆に面白いでしょ?」と言わんばかりの姿勢。申し訳ないがそれは才能と努力を欠いた人間の怠慢で、過去を知ろうともしない傲慢な態度にしか見えない。今回は第一幕でも第二幕でもそんな客と文化をナメきった脚本/演出家の態度だけが伝わってきた。はっきり言ってそんな奴らはさっさと全員死んでしまえばいい。こんなチンケなものに振り回されるアイドルたちとこんなもののために7000円を払わされる我々の身にもなってくれよ。以上。

5/31

最近本当に落ち込むことや下らないことが多すぎて、自分が映画とか音楽をひたすら見たり聞きまくったりしてるのすら果たして何のためなのか、はっきり言ってよくわからなくなっていたのだけれど、そんな状態で観たベロッキオの『夜よ、こんにちは』には大いに勇気づけられた。映画とはフィクションとは、決して現実の模造品や劣化コピーなどではなく、それ自体が現実と対比されるべき存在として我々に迫ってくるものであると言わんばかりの本当に素晴らしい作品。ラストでピンク・フロイドが流れる映画は名作ですね。

餌食・ポケットの中の握り拳

爆音映画祭で『餌食』と『ポケットの中の握り拳』を観る。バウスシアターへ行くのもこれが最後。

『餌食』はこれがもうとにかく最高で、マトゥンビやピーター・トッシュによるキラー・チューンがデカい音で鳴り響く中(79年という、ポスト・パンクの連中によってレゲエ解釈が行われていくのとほぼ同時期にこの作品を撮るという若松孝二の同時代性!)でボロッボロに退色したフィルムを観るという行為自体が贅沢。ニューシネマ(個人的にはバイクで駆け抜けるシーンで『サンダーボルト』を想起)のようなクライマックスと若松孝二の怒りがスクリーンに爆裂するかのようなラストにただただ唖然。

『ポケットの中の握り拳』はヌーヴェル・ヴァーグなのかネオレアリズモなのか、もうなんだかよくわからないのだけれど、ひたすら狂った人物が動き続けるという凄まじい作品で、その瑞々しくて強烈な動と静の前では神も国家も平伏すしかない。まさに「神をも畏れぬ」という形容詞はこの作品のためにあるかのようだった。アクションの素早さと動き回るカメラワークというスタイルの美しさもさることながら、フィルムに焼き付けられた若きベロッキオの不遜な態度にこそ感動せずにいられない。

ナマで踊ろう

ひとまず歌詞カードを読みながらインストの方だけ聞いている。マキュウのアルバムとかでもよくやったけれど、この後にインスト盤じゃない方を聞くと意外と新鮮な感覚があって楽しい(はず)。が、なぜかこれが逆になると単なる歌抜き音源にしか思えないのである……。

5/26

不気味な虚無そのものの器、キャラクターではなく単にそこにあるものとして立つ前田敦子のきわめて映画的な存在感を再確認させてくれる怪作『Seventh Code』を観たり、素晴らしきポップ・ミュージック"ラブラドール・レトリバー"を幾度と無く耳にしたり、最近資本主義が生み出した怪物としてのアイドル産業にしか作り得ないような美しさを持った作品に触れる機会が多かった。だからこそ、その負の側面として想像出来ないほどにおぞましい事件に触れてしまったことはこの文化の消費者の一人として本当にショックが大きい。胸が痛むどころではない。あってはならないことだ。

犯人の動機についてなど全てが明らかでない今、憶測で物を語るべきでないとはいえ、このような事態に直面して確率論の問題だとかイレギュラーのやったことだなどと言うことが出来なくなってしまった。もっとより根源的な問題があるのではないかと思うし、そうではないようにも思える。ただ一つ言えるのは警備体制を強化して、という対処療法がもちろん必要だし検討されるべきだろう。握手会の中止も考慮に入れるべきなのかもしれない。

ただこの事件に一切関係のない自分が、あるとすれば単なるこの文化の享受者であるというその一点においてだけなのに、なぜここまで落ち着かず辛いのかすらよくわからない。ただ、犯人がどういう動機なのかわからない今だからこそ色々考えてしまった。すると自分の中にああいった攻撃性の裏返しとしてのタナトス欲求が無いのかと少し掘り下げてみると確実に否定することは出来ないことに直面してしまうし、まったく関係の無い存在に対する心配やこの胸のざわつきと、犯人がまったく関係の無い人間に対して凶行に及ぶに至った動機のようなものがまったく異質なものと言える自信もない。こうした圧倒的なこの世界のおぞましさのようなものに触れて認識してしまった今、自分がそのおぞましさの中にいるということが本当に気分が悪い。こういう時に極端な話を持ち出すのは良くない癖だと思うけど、もうほんと今50枚くらい使ってない握手券あるんだけどこれが全部紙切れになってもいい。しかし、そんなことを吐いても一ヶ月もすれば平気で握手に行っている自分が容易に想像出来るわけで。それはやはり否定したい欲求なんだけれど、しかしその欲求だけが自分にとってはアイドルが正しい文化産業であると言えるための根拠だと今は信じたい……。相変わらずとりとめのないことばかり書いていてすいません。

5/23

最近爆音映画祭に通っている。

ラスト・ワルツ

冒頭、"THIS FILM SHOULD BE PLAYED LOUD"という但し書きに導かれて聞こえるビリヤードの快音が最高に気持ち良い。このどこか喜劇的で遊戯性に満ちた音が映画全体を支配しているかのような気分にさせてくれる、そんな音だ。ビリヤードの音でそれだから言わずもがなライブシーンは最高で、巨大な爆音で奏でられる歌心に満ちた演奏はそれだけで十二分にイメージを想起させてくれる。映像より雄弁な音楽もあるということだろうか。目を閉じて音に身体を委ねているだけでロックという音楽がどこから来て、どこへ行くかが語られているかのようだった。

そもそも『ザ・ラスト・ワルツ』はザ・バンドという優れた一つのロックバンドの(ロビー・ロバートソンの言葉を借りれば)「始まりの終わり」についての映画である。と同時に、80年代以降アメリカにおいて産業としてのロックが完全に衰退していゆく、という歴史的事実を踏まえて観ると、これはアメリカが生み出したロックという音楽そのものの「始まりの終わり」の映画でもあるとも言える。だから、マディ・ウォーターズやステイプル・シンガーズといった黒人たちの存在は、純粋に彼らの音楽的豊穣に触れるということのみならずロックという音楽がどこから来たのかを我々に再確認させる意義を持っているし、ラストの祝祭の大団円的だがどこか物悲しい雰囲気は、ザ・バンドという一つのバンドが終わるだけでなく、より大きな歴史の一つの断面に触れているかのようなしめやかで荘厳なものを感じさせる。そんな大きな宴のあとのような感触がありつつもしかし、センチメンタルな雰囲気だけで終わるのではない。エンドロール、5人だけのささやかなワルツは時代が移り変わっても何も変わらないものがあるということを示唆するかのようにもっとも瑞々しい演奏、最高。

ドクター・フィールグッド オイル・シティ・コンフィデンシャル

オリジナルメンバーの中で存命する3人とブリローの妻、母親を中心としたドキュメンタリーで、幼少期からバンドの結成、成功とその終焉を描く。ライブ映像がほとんど残ってないのか使い回されまくる在りし日のバンドの姿やライブシーンよりも、寒々しい空と滔々と燃える炭鉱の炎以外に何もないキャンベイ・アイランド(オイル・シティ)の風景が印象的。彼らがR&Bやブルースに傾倒したのはこの何も無さゆえだと言わんばかりの何も無さ。

しかし『ラスト・ワルツ』もそうだけどバンドが終わる時を描いた映画のあのセンチメンタルな後味というのはなんなんだろうか。若者たちの一つの共同幻想が成立して成功してふとしたきっかけで終わってしまう、その呆気なさがどうしようもなく魅力的に見える。そんな寂寥感がありつつも、現在のウィルコ・ジョンソンが閑散とした街の中、一人でギターをかき鳴らしながら歌うその姿と過去のバンドの映像をオーバーラップさせる演出は非常に良かった。街も時代も変わってしまうけれど何も変わらないものもある、と言わんばかりに当時のように動きまわるウィルコ・ジョンソンの狂気(侠気)にグッと来る。

ビースティ・ボーイズ 撮られっぱなし天国

選ばれたオーディエンス50人が手持ちカメラでビースティ・ボーイズマディソン・スクエア・ガーデン公演を撮りまくるというなんだか思いつきのような作品。とはいえビースティ・ボーイズの素晴らしさとは多分、思いつきを熱意と愛情でそのまま実現してきたところにあるのだということを改めて実感。無様なリズム感を晒しながらも俺たちに出来ることはこれなんだと言わんばかりにヘヴィなギターをサンプルすることで仕上げられた"Licensed to Ill"に心打たれた人間として、この初期衝動に満ちた映像にも同じように感じてしまった。

その思いつきの面白さと同時に、これはビースティ・ボーイズの第二の全盛期が間違いなく"To The 5 Boroughs"期にあったのだということを物語るフィルムでもある。その全盛期の活力を支えているのは、使い古された言葉を用いるなら"ストリート感覚"というものであって、この感覚を強調することこそが911以降のアメリカ、ニューヨークが直面した状況に対してビースティーズが何をすべきかというステートメントでもあった。アンコール後のラストで"Sabotage"をブッシュ大統領に捧げる姿からも当時の彼らが何と闘っていたかは明らかだ。

50人の素人が持ったカメラは好き勝手なものを映していて、それは例えばステージ上の3人だけではなく、踊り狂うオーディエンスだったりトイレに向かう自分だったり、あるいは仲間と勝手にアリーナ席へ侵入しようとする(そして失敗する)姿だったりが捉えられている。エンドロールに至っても楽屋内のメンバーよりも熱狂する彼らの感想(それは映画を観た我々の想いとも共鳴する)にこそフォーカスが向けられている。このように普通のライブドキュメンタリーでは省みられることの少ないオーディエンスの一人一人が、ステージ上のメンバーと同価値のものとしてカメラに収められている。この"自分たちとオーディエンスが地続きであるという確信"に満ちた編集が映画の中心となっていて、それこそが彼らなりの"ストリート感覚"の映像的表現だったのだろう。そのことは"ここにいるみんながスターだ"と声を詰まらせながら語られる終盤のMCでも明らかで、サウンドからもオールドスクールへの回帰が特徴的なこの時代に、素人にカメラを回させるこのフィルムが作られたのは偶然ではないように思える。そして俺はこの時期のビースティーズが特に好きなんだ。感動。