4/21

周りの人がなんだかみんな大人に見える。年齢からすれば私も早く色々なことに折り合いをつけていかなければいけないのだが、しかし私は自分より年上なのに子供な人(というか、そう見える人)を見つけては安心して、今日も幼児的な振る舞いをしてしまうのであった……。アイドル、最高!俺は最低!

ロボコップ

をギリギリ駆け込みで見てきたのであった。MMシネマズみなとみらいにて。グロい映像とアメリカ人の神経を逆なでするような演出と構成はヴァーホーヴェンイズムを継承していると言えるのでは。徹底したカタルシスの無さと合わせて全編に漂うイヤ~な感じはなかなか良い。あの重みも何もあったもんじゃないようなアクションの不得手はちょっとヒドすぎるなあとは思いますが(ああいうFPSみたいなアクションは流行りなんでしょうけど好きになれない)。あとベーコンのルシアン・フロイドの3つの習作』が社長室に飾ってあったのと前半の展開からもっとアート風というか、人間の精神というのは……みたいな哲学的な話になっていくのかと思ったら、そんなことはまるでなく割りと小さな話に収まってしまったのが肩透かし感。ラストのサミュエルLジャクソンのマザーファッカーと後に流れるクラッシュの皮肉で痛快な響きがサイコーで、それだけで全部許せる気がする。

4/15

乃木坂アンダーライブ

ちょっと感動してしまうくらい良かったです。なんでだろうなーと考えると、単に好きなメンバーが全員いたし久しぶりに見れたからっていうのが一番の要素なのかもしれないが、しかしそれだけで言及を終わらせることも出来ない類の良さがあったと思う。言語化出来ない魅力が果たして何なのかは相変わらずわからない。根本的なところで音楽(付言しておくと、生歌も選曲も良かった)や踊りとかは単なる媒介であってそこと関係ない部分に感動しているからなんだろうけれど、しかしそれは単なるフェティシズムなのではないかという不安があるし、何より感じた魅力をアイドルという存在それ自体が持つ魅力というものに帰着させられるほど、アイドルという存在を(映画や音楽のようには)信じ切ることが自分にはまだ出来ない。まあこういう話になると乃木坂関係ないんですけど。何にせよ良かったという思いは本当純粋にライブとしては一昨年のZepp以来楽しかったような気がする。それは彼女らの持つ熱気と意気込みというものに触れたから、ということにしておきたい。あと自分がこういう主流の中の傍流、のような存在にロマンを感じてしまう人間であるということを再確認した。

ところで楽しかった代償として楽天カード会員限定のアイドルライブというまったくゾッとしないイベントに参加してしまった負い目というものが生じてしまったのですが、それはこれから先抱えて生きていきます。

4/12

『怪人マブゼ博士』(1960)

オーディトリウム渋谷で。ラングはポツポツとしか見たことがない私が言うのもなんですが、とてもラングらしい(わけわからん)作品だったと言えるのではないでしょうか。ここで「ラングらしい」というのはナチスに追われる前の彼がドイツで撮ったいわゆる表現主義的な映像そのものの凄まじさで観客を圧倒するそれではなく、登場人物のヒューマニティーの欠如(全員ひとでなし)や濃密な密度の演出、そして「監視と管理」という主題などなどのことを言いたいと思います。それが全部あります(なんという循環論法)。

さて、明らかな低予算映画であり、一見何の事はないB級ノワールでありながら名匠フリッツ・ラングの遺作であるという微妙な立ち位置の(笑)『怪人マブゼ博士』は、傑作だと思います。

この作品は明確な視点を設定せず99分の間に目まぐるしく語り手が変わり、かつその語り手それぞれの本当の目的が終盤まで明らかにされないという非常にわかりにくい構成であるのですが、映像に込められた凄まじい密度とバラバラの視点からなるシーンの1個1個をきわめてテンポ良く繋がれていくことによって、映画は説明不足という印象を与えることなくグイグイと推進していきます。まず秀逸だと思ったのはその繋ぎ方です。例えばあるシークエンスにおいては登場人物の刑事がパイプを灰皿に「コン、コン」とぶつけてシーンが終わるかと思えば、それと極めて似た「コン、コン」というドアのノック音が媒介となり次のシーンに突入するという演出が取られます。この音の使い方の華麗さにはシビれました。映画的なリズム、テンポの持続として非常にわかりやすい。他にもモノローグで終わりそのモノローグを繋げたまま、モノローグで語られる人物のクローズアップから次のシーンが始まるという演出が多用されたり、とにかく映像と映像の繋ぎ目に対する執着のようなものを感じました。その編集の心地よさが登場人物の視点というものを超越した映像全体としての語りのうねりのようなものとして登場することで、我々観客はサスペンスを続けるための疑問(ドクトル・マブゼの正体とは?そもそもドクトル・マブゼは生きているのか?)が解消されないまま、映画が大富豪と自殺志願者の女とのロマンス的展開に発展していてもどこか安心して見ていられるのです。この映画は主人公らしい主人公というのは設定されず、また前述した通り登場人物はほとんどの場合目的を隠し持っていて、観客は映像の密度と情報の不足を同時に受け入れる必要があるのですが、不思議と置いてけぼりにされているような感覚はないのです。そこが魅力的だと思います。

また、魅力的な娯楽作であるからといってそこだけを評価するのは勿体無いようなテーマ性というものもこの作品からは感じられます。これは上映後のトークショーで言っていたことと重なるのですが、ホテル中に監視カメラが張り巡らされているという設定はなるほど窃視的ではあります。が、ラングのそれではヒッチコックのそれのように覗き見の快楽と結び付いているわけではありません。むしろこのホテルがゲシュタポによって作られたものであるという設定からも明らかであるように、ここでの「監視」とはナチス的な「管理」と地続きなものであり、戦後20年が経とうとしている当時のドイツでもナチス的な傾向は払拭されていないぞ、とこのアメリカ帰りの監督は言うのです(笑)。公開当時は批評家に酷評されたようですが、しかしこうした問題提起をしたラングの先見性は、もはや監視社会どころかあたかも牢獄であるかのような現在においてもなお通用するどころか、公開当時以上に迫真のものとして我々に迫ってくるのではないでしょうか。

忘れてはならないのがラストのアクションにおける心躍るB級感です。ホテル内で犬に噛み付かれる捜査官のカットからジャンプ・カット的に訪れる外からホテルへの唐突なマシンガン連射、デカい銃撃音と共にバタバタと倒れていく警察官、死体を盾にする(笑)インターポール捜査官と犯罪者との銃撃戦、そしてアメリカ車を駆けるマブゼ博士一味と刑事たちの追跡劇。私の好きな作品である『復讐は俺に任せろ』でもそうだったのですが、ラング監督の撮るB級ノワールは観客へのサービスなのでしょうか、なんだか少年漫画的に心踊る展開が用意されていることが多い気がします。しかもそれが映像的にはどこかちゃちさが残っていて、だが逆にケレン味になっていることで活劇として異様に格好良いものになっているのです。『メトロポリス』などの超大作を撮った監督とは思えない、予算の範囲内の(笑)通俗的な格好良さといいますか、とにかく愛せます。

映像のテンポの良さ・小気味良さと、「一つの疑問が解決したと思ったらすでに新たな疑問が現れ、すでにそれに囚われている」という構成、それを補強するかのように「自らの行動はすべて予測されている」という感覚を与え続けるカメラによる監視・予知能力者の存在による居心地の悪さとが併存しながら、猛烈なスピードの演出で突っ走っていき、ラストの活劇に繋がっていく流れは見事としか言いようがありません。そしてそれは、ラングの「監視と管理」という主題を実に恐ろしく表現しているのです。また、登場人物の重層的な設定(予知能力者かと思えば…であり、保険屋かと思えば…であり、ヒロインかと思えば…)と決着が見えないまま進行していく現実感の無さはまさに映画的であるといえ、老いた名匠フリッツ・ラング監督の撮るショット一つ一つにほとばしる老練と無縁の才気と相まって、そこには映画でしか成し得ないものが存在していたと思います。遺作に相応しい風格や威厳よりも、もっと撮って欲しかったという素直な感想が先走るような魅力的な作品でした。

4/11

Bob Dylan

を見に行った。9日にDiverCity Tokyoで。何回も来ているはずなのにまたZepp TokyoとDiverCity Tokyoを間違えてしまった…。

話には聞いていたが、基本的には『Love and Theft』以降の曲を中心としたアメリカン・ルーツ・ミュージック。"Tangled Up In Blue"や"Blowin' in the Wind"などもやっていたが、どれも原曲を留めないほどアレンジしていて往年のヒット曲を回顧するといった雰囲気は皆無。歌のフレーズから「あ、この曲をやっているんだ」とわかる感じ。レイドバックしながらも正確無比なバックバンドは確固たる一つのイメージを作っていくかのように音を置いていき、そのアンサンブルの上でディランはしわがれた声で歌なのか呟きなのかぼやきなのか、言葉を吐いていく。ブルースであり、フォークであり、カントリーでもある。ディランが鍵盤を強く叩けば、ロックンロールの萌芽を見せたりもする。こういう演奏での音楽ってある種、観客に緊張を求めないものであってともすれば弛緩してしまいかねないとも思えるが、ここには一つ一つの言葉に耳を傾けさせる説得力がある。それが何に起因するのか、正直言ってよくわからない……。ギターも持たず、メロディらしいメロディを歌うわけでもないのにこの圧倒的音楽的な豊穣さに触れる感覚。ただ、豊かさだけではなくどろっとした黒い何か深淵なものもこの歌は孕んでいるように思える。50分×2部を貫いているのは禍々しさと豊かさが素知らぬ顔で同居したアメリカン・ルーツ・ミュージックの持つ緊張感。

が、このルーツ・ミュージックへの傾倒を、"老いたミュージシャンの円熟の境地"などと一言で表現するのは避けるべきだろう。今のディランの老練さは、フォークやロックなどという便宜上の分類分けによるわかりやすさを避け続けてきた彼の延長線上にあるのではないか。ウディ・ガスリーを範として奥深き音楽の真髄のようなものを探求してきた彼の集大成のようにも思えるが、そうではないようにも思える。なぜならジョニー・キャッシュと共にカントリーを歌ったかと思えば「プロテスト・ソング」を歌うし、ゴスペルを歌い神に仕えたかと思えば返す刀であっさりと宗旨替えしてしまうのがディランだったはずで、そう考えると今の音楽性もそんな男の探求の一つの形にすぎず、アメリカン・ルーツ・ミュージックという形式ですらあっさりと捨ててしまうのではないか。ジャンルというものは究極的に彼の前では意味がなく、その奥に潜む人間性への探求こそが目的であるような……。

いや、自分には持て余すようなデカい話しになってしまった。少なくともディランはディランとして生きてきたという重みを感じるステージでした。あとミーハーで申し訳ないんですけれど、眼光の鋭さとか横顔、吹くハーモニカの音とかは(記録映像で見る)昔の姿とまったく変わっていないってところになんだか感動してしまった。本当に格好良かったな。

4/6

もう4月か……。最近家で映画を見るのが億劫になってきてしまった。集中力が持続しない。今からこのザマでは30代40代になった時にどうなってしまうのか……。

気付いたら片想い

結構聞いてる。『バレッタ』がヒドすぎましたからね~。情緒過多な湿っぽい歌謡ポップな表題曲はいかにも手堅い出来だし、『シャキイズム』~『そんなバカな』に続く軽薄ガチ恋三部作、アイドルオタクウケしそうな構造の『ロマンスのスタート』も意外とドラムが前に出ていて高揚感があって悪くない小品。『生まれたままで』は音数が多くて楽しいし質感も丁寧。『ラブラドール・レトリバー』といい秋元康大滝詠一の死に感化されたのかと疑いたくなる『吐息のメソッド』が白眉かな。あとの2曲はどうでもいい。

LEGO(R)ムービー

確かに面白かった。何もかもをレゴで表現するという視覚的な面白さは言うまでもないが、プロットの巧みさにも舌を巻いた。「父を越えるための英雄冒険譚」を、レゴという玩具に対する真摯な態度を突き詰めながら映画化するにあたって、あの重層的な構造はこれ以上ない最善の魅せ方に思える。随所に敷き詰められた小ネタやブラックなユーモアのセンスも悪くない。

 

……が、ああいう意味と情報が過剰な演出というのにどうも馴染めなくなってしまった(好みの問題であって、レゴという玩具を用いた世界観ならあれで正解だと思うけど)のと、そもそもオタクがはしゃぎながら作った倫理的に正しい作品というのが果たしてそれほど良いものなのか?という意味で巷の絶賛ムードにはどうもノレないのも事実。『宇宙人ポール』もそうだった。まあ両方ラストでさめざめと泣きましたけど。

3/22

Oneohtrix Point Never / patten

代官山UNITで。OPNもオープニング・アクトのpattenも突飛な発想に導かれた奔放な展開で、単純に聞いていて面白かった。で、OPNは官能的で美しいメロディが基調となっていた『R Plus Seven』の音素材を用いて陶酔的な音像を作り上げたかと思えば、暴力的なハーシュノイズを織り交ぜUSアンダーグラウンドにおけるドローン/ノイズのポップ化という自らの功績をセルフ・パロディ化し、舌の根も乾かぬうちにダンスフロア対応で快楽的な四つ打ちを繰り出し観客を痙攣させる。patten同様にアブストラクトで分裂症的だが、pattenが頭に浮かんだイメージを変更していく意図そのものを音として積み立てているようなある種の作為性があったのに対して、OPNはむしろ淀みのない無意識の流れ、意識の下に横たわる通奏低音をそのまま表象化し、音楽として再構成しているかのようだった。それは情報量が多くて、頭で聞く音楽なのだけれど頭を通過し意識に語りかけているかのような……(自分でもよくわかりません)。あとOPNは音の質感がぜんぜん違う。最初はUNITというクラブ向けの音響が良いように作用している程度なのかと思っていたのだけれど、むしろ出音の解像度そのものが違うような鳴り。VJと相まって焦点が定まらず、視点がバラけていくのに音自体が気持ちよくてストレスがない。

いや、面白い体験でした。でもクラブでスタンディングで聞くというよりアートスペースとかで椅子に座って聞きたい。(客層もそうだったけど)まあディレッタント向けなのかなーと。というわけでテクノの快楽やノイズの暴力性をも総括する知性が印象的でした。バカの感想だ。

Juice=Juice

iTunesで『イジワルしないで抱きしめてよ』を聞いていたらふと観たくなったのが昼過ぎ。そこから急いで無銭イベントを探して17:00のイベントで観ることが出来たという……。いや、東京はすごい。

JJも久しぶりに観たんだけどすごいいい。浅学な身でして大層なことは言えませんが、宮本佳林ちゃんの半端ない解像度の高さとそれをそれぞれのやり方で食い破らんとする4人が奇妙なバランスで釣り合ってる感じ?よくわかんないけどおもしれー。衣装もかわいい。

3/18

天国の門

DVDで見られるのに映画をなぜ劇場で見るのか?ソクーロフなんかはテレビは人の作った光で映画は神の作った光なんてことを言ってるけれどそういうよくわからない話を置いても、やはり映画館で見る映画というのは明らかにDVDで見るそれとは違う。大画面・大音量とかそういうレベルではなくて経験の質としてまったく異なると思う。恐らく映画を劇場で見ることの一回性というのは確かにあって(それは演劇のそれとは違うのだけれど)、むしろ興行としての映画の出自を省みるとその再演可能性とはまた別の次元で存在している、まさに映画という(滅び行く)映像メディアだけが持っている特性にして特権のように思える……。

ということをつらつらと考えるようになったのは先日バウスシアターで観た『天国の門』があまりに素晴らしい体験であったからだ。あの映画は映画史的な側面からも作品単体の美術的な側面からも、映画館で観る以外の体験はありえないものと断言したい。序盤、クリス・クリストファーソンの顔に電車の窓から漏れ込む光が挿し込むカットを見てしまうと映画における光とはやはり(カトリック教会に挿し込む光がそうであったように)神の作った光なのではないか……などと大袈裟でロマン主義的なことを考えたくなる。

アイドルとスキャンダル

「アイドルが読モと付き合った」程度の本当に下らない、この世で一番どうでもいい事柄に対して、道化のようにおどけながらもわざとヒステリックに振る舞う人々の反応を見ていると、この文化が世界で一番下らなくて恥ずかしいことのように思えてくる。そうなると自分のスタンスとして、自分はただ音楽と運動を愛しているのですよ、なんてことを強調したくもなる。いやまあこの姿こそまさに凡庸なんでしょうけれど……。いつものことですが自意識のレベルに落としこんですいません……。あー恥ずかしい。